っていた。だから私はよく早寝をした。が、床にはいっても容易に眠くはならなかった。雨戸の外では夜鳥《よどり》の声が、遠近《えんきん》を定めず私を驚かした。その声はこの住居《すまい》の上にある天主閣《てんしゅかく》を心に描かせた。昼見るといつも天主閣は、蓊鬱《おううつ》とした松の間に三層《さんぞう》の白壁《しらかべ》を畳みながら、その反《そ》り返った家根の空へ無数の鴉《からす》をばら撒《ま》いている。――私はいつかうとうとと浅い眠に沈みながら、それでもまだ腹の底には水のような春寒《はるさむ》が漂っているのを意識した。
するとある夜の事――それは予定の講演日数が将《まさ》に終ろうとしている頃であった。私はいつもの通りランプの前にあぐらをかいて、漫然と書見に耽《ふけ》っていると、突然次の間との境の襖が無気味なほど静に明いた。その明いたのに気がついた時、無意識にあの別荘番を予期していた私は、折よく先刻書いて置いた端書の投函《とうかん》を頼もうと思って、何気なくその方を一瞥した。するとその襖側《ふすまぎわ》のうす暗がりには、私の全く見知らない四十恰好《しじゅうがっこう》の男が一人、端然として坐っ
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