なはだ泰平に暮す事が出来た。が、同時にまた、参考書と着換えとを入れた鞄のほかに何一つない私自身を、春寒く思う事も度々あった。
 もっとも午後は時折来る訪問客に気が紛《まぎ》れて、さほど寂しいとは思わなかった。が、やがて竹の筒《つつ》を台にした古風なランプに火が燈《とも》ると、人間らしい気息《いぶき》の通う世界は、たちまちそのかすかな光に照される私の周囲だけに縮まってしまった。しかも私にはその周囲さえ、決して頼もしい気は起させなかった。私の後《うしろ》にある床《とこ》の間《ま》には、花も活《い》けてない青銅の瓶《かめ》が一つ、威《い》かつくどっしりと据えてあった。そうしてその上には怪しげな楊柳観音《ようりゅうかんのん》の軸が、煤《すす》けた錦襴《きんらん》の表装《ひょうそう》の中に朦朧《もうろう》と墨色《ぼくしょく》を弁じていた。私は折々書見の眼をあげて、この古ぼけた仏画をふり返ると、必ず※[#「火+主」、第3水準1−87−40]《た》きもしない線香がどこかで※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《にお》っているような心もちがした。それほど座敷の中には寺らしい閑寂の気が罩《こも》
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