。」
「いえ、ただ、御聞きになってさえ下されば、それでもう私には本望すぎるくらいでございます。」
 中村玄道《なかむらげんどう》と名のった人物は、指の一本足りない手に畳の上の扇子をとり上げると、時々そっと眼をあげて私よりもむしろ床の間の楊柳観音《ようりゅうかんのん》を偸《ぬす》み見ながら、やはり抑揚《よくよう》に乏しい陰気な調子で、とぎれ勝ちにこう話し始めた。

       ―――――――――――――――――――――――――

 ちょうど明治二十四年の事でございます。御承知の通り二十四年と申しますと、あの濃尾《のうび》の大地震《おおじしん》がございました年で、あれ以来この大垣《おおがき》もがらりと容子《ようす》が違ってしまいましたが、その頃町には小学校がちょうど二つございまして、一つは藩侯の御建てになったもの、一つは町方《まちかた》の建てたものと、こう分れて居ったものでございます。私はその藩侯の御建てになったK小学校へ奉職して居りましたが、二三年|前《まえ》に県の師範学校を首席で卒業致しましたのと、その後《のち》また引き続いて校長などの信用も相当にございましたのとで、年輩にしては高級な十五円と云う月俸を頂戴致して居りました。唯今でこそ十五円の月給取は露命も繋《つな》げないぐらいでございましょうが、何分二十年も以前の事で、十分とは参りませんまでも、暮しに不自由はございませんでしたから、同僚の中でも私などは、どちらかと申すと羨望《せんぼう》の的になったほどでございました。
 家族は天にも地にも妻一人で、それもまだ結婚してから、ようやく二年ばかりしか経たない頃でございました。妻は校長の遠縁のもので、幼い時に両親に別れてから私の所へ片づくまで、ずっと校長夫婦が娘のように面倒を見てくれた女でございます。名は小夜《さよ》と申しまして、私の口から申し上げますのも、異なものでございますが、至って素直な、はにかみ易い――その代りまた無口過ぎて、どこか影の薄いような、寂しい生れつきでございました。が、私には似たもの夫婦で、たといこれと申すほどの花々しい楽しさはございませんでも、まず安らかなその日その日を、送る事が出来たのでございます。
 するとあの大地震《おおじしん》で、――忘れも致しません十月の二十八日、かれこれ午前七時頃でございましょうか。私が井戸|端《ばた》で楊枝《ようじ》を使っていると、妻は台所で釜の飯を移している。――その上へ家がつぶれました。それがほんの一二分の間の事で、まるで大風のような凄《すさ》まじい地鳴りが襲いかかったと思いますと、たちまちめきめきと家が傾《かし》いで、後《あと》はただ瓦の飛ぶのが見えたばかりでございます。私はあっと云う暇《ひま》もなく、やにわに落ちて来た庇《ひさし》に敷かれて、しばらくは無我無中のまま、どこからともなく寄せて来る大震動の波に揺られて居りましたが、やっとその庇の下から土煙の中へ這い出して見ますと、目の前にあるのは私の家の屋根で、しかも瓦の間に草の生えたのが、そっくり地の上へひしゃげて居りました。
 その時の私の心もちは、驚いたと申しましょうか。慌《あわ》てたと申しましょうか。まるで放心したのも同前で、べったりそこへ腰を抜いたなり、ちょうど嵐の海のように右にも左にも屋根を落した家々の上へ眼をやって、地鳴りの音、梁《はり》の落ちる音、樹木の折れる音、壁の崩れる音、それから幾千人もの人々が逃げ惑うのでございましょう、声とも音ともつかない響が騒然と煮えくり返るのをぼんやり聞いて居りました。が、それはほんの刹那《せつな》の間《あいだ》で、やがて向うの庇《ひさし》の下に動いているものを見つけますと、私は急に飛び上って、凶《わる》い夢からでも覚めたように意味のない大声を挙げながら、いきなりそこへ駈けつけました。庇の下には妻の小夜《さよ》が、下《か》半身を梁に圧《お》されながら、悶え苦しんで居ったのでございます。
 私は妻の手を執って引張りました。妻の肩を押して起そうとしました。が、圧《お》しにかかった梁は、虫の這い出すほども動きません。私はうろたえながら、庇の板を一枚一枚むしり取りました。取りながら、何度も妻に向って「しっかりしろ。」と喚《わめ》きました。妻を? いやあるいは私自身を励ましていたのかも存じません。小夜は「苦しい。」と申しました。「どうかして下さいまし。」とも申しました。が、私に励まされるまでもなく、別人のように血相を変えて、必死に梁を擡《もた》げようと致して居りましたから、私はその時妻の両手が、爪も見えないほど血にまみれて、震えながら梁をさぐって居ったのが、今でもまざまざと苦しい記憶に残っているのでございます。
 それが長い長い間の事でございました。――その内にふと気がつきますと、どこからか濛
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