ていた。実を云えばその瞬間、私は驚愕《きょうがく》――と云うよりもむしろ迷信的な恐怖に近い一種の感情に脅《おびや》かされた。また実際その男は、それだけのショックに価すべく、ぼんやりしたランプの光を浴びて、妙に幽霊じみた姿を具えていた。が、彼は私と顔を合わすと、昔風に両肱《りょうひじ》を高く張って恭《うやうや》しく頭《かしら》を下げながら、思ったよりも若い声で、ほとんど機械的にこんな挨拶の言《ことば》を述べた。
「夜中《やちゅう》、殊に御忙しい所を御邪魔に上りまして、何とも申し訳の致しようはございませんが、ちと折入って先生に御願い申したい儀がございまして、失礼をも顧ず、参上致したような次第でございます。」
 ようやく最初のショックから恢復した私は、その男がこう弁じ立てている間に、始めて落着いて相手を観察した。彼は額の広い、頬《ほお》のこけた、年にも似合わず眼に働きのある、品の好《い》い半白《はんぱく》の人物だった。それが紋附でこそなかったが、見苦しからぬ羽織袴で、しかも膝のあたりにはちゃんと扇面を控えていた。ただ、咄嗟《とっさ》の際にも私の神経を刺戟したのは、彼の左の手の指が一本欠けている事だった。私はふとそれに気がつくと、我知らず眼をその手から外《そ》らさないではいられなかった。
「何か御用ですか。」
 私は読みかけた書物を閉じながら、無愛想にこう問いかけた。云うまでもなく私には、彼の唐突な訪問が意外であると共に腹立しかった。と同時にまた別荘番が一言《いちごん》もこの客来《きゃくらい》を取次がないのも不審だった。しかしその男は私の冷淡な言葉にもめげないで、もう一度額を畳につけると、相不変朗読《あいかわらずろうどく》でもしそうな調子で、
「申し遅れましたが、私《わたくし》は中村玄道《なかむらげんどう》と申しますもので、やはり毎日先生の御講演を伺いに出て居りますが、勿論多数の中でございますから、御見覚えもございますまい。どうかこれを御縁にして、今後はまた何分ともよろしく御指導のほどを御願い致します。」
 私はここに至って、ようやくこの男の来意が呑みこめたような心もちがした。が、夜中《やちゅう》書見の清興《せいきょう》を破られた事は、依然として不快に違いなかった。
「すると――何か私の講演に質疑でもあると仰有《おっしゃ》るのですか。」
 こう尋ねた私は内心ひそかに、「質疑なら明日《みょうにち》講演場で伺いましょう。」と云う体《てい》の善い撃退の文句を用意していた。しかし相手はやはり顔の筋肉一つ動かさないで、じっと袴の膝の上に視線を落しながら、
「いえ、質疑ではございません。ございませんが、実は私一身のふり方につきまして、善悪とも先生の御意見を承りたいのでございます。と申しますのは、唯今からざっと二十年ばかり以前、私はある思いもよらない出来事に出合いまして、その結果とんと私にも私自身がわからなくなってしまいました。つきましては、先生のような倫理学界の大家の御説を伺いましたら、自然分別もつこうと存じまして、今晩はわざわざ推参致したのでございます。いかがでございましょう。御退屈でも私の身の上話を一通り御聴き取り下さる訳には参りますまいか。」
 私は答に躊躇《ちゅうちょ》した。成程《なるほど》専門の上から云えば倫理学者には相違ないが、そうかと云ってまた私は、その専門の知識を運転させてすぐに当面の実際問題への霊活《れいかつ》な解決を与え得るほど、融通の利《き》く頭脳の持ち主だとは遺憾ながら己惚《うぬぼ》れる事が出来なかった。すると彼は私の逡巡《しゅんじゅん》に早くも気がついたと見えて、今まで袴《はかま》の膝の上に伏せていた視線をあげると、半ば歎願するように、怯《お》ず怯《お》ず私の顔色《かおいろ》を窺いながら、前よりやや自然な声で、慇懃《いんぎん》にこう言葉を継《つ》いだ。
「いえ、それも勿論強いて先生から、是非の御判断を伺わなくてはならないと申す訳ではございません。ただ、私がこの年になりますまで、始終頭を悩まさずにはいられなかった問題でございますから、せめてその間の苦しみだけでも先生のような方の御耳に入れて、多少にもせよ私自身の心やりに致したいと思うのでございます。」
 こう云われて見ると私は、義理にもこの見知らない男の話を聞かないと云う訳には行かなかった。が、同時にまた不吉な予感と茫漠とした一種の責任感とが、重苦しく私の心の上にのしかかって来るような心もちもした。私はそれらの不安な感じを払い除けたい一心から、わざと気軽らしい態度を装《よそお》って、うすぼんやりしたランプの向うに近々と相手を招じながら、
「ではとにかく御話だけ伺いましょう。もっともそれを伺ったからと云って、格別御参考になるような意見などは申し上げられるかどうかわかりませんが
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