学校友だち
芥川龍之介

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)上滝嵬《かうたきたかし》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)只|冬夜《とうや》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「さんずい+方」、220−上−12]《みのと》
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 これは学校友だちのことと言ふも、学校友だちの全部のことにあらず。只|冬夜《とうや》電燈のもとに原稿紙に向へる時、ふと心に浮かびたる学校友だちのことばかりなり。
 上滝嵬《かうたきたかし》 これは、小学以来の友だちなり。嵬《くわい》はタカシと訓ず。細君の名は秋菜《あきな》。秦豊吉《はたとよきち》、この夫婦を南画的夫婦と言ふ。東京の医科大学を出、今は厦門《アモイ》の何《なん》とか病院に在り。人生観上のリアリストなれども、実生活に処する時には必《かならず》しもさほどリアリストにあらず。西洋の小説にある医者に似たり。子供の名を※[#「さんずい+方」、220−上−12]《みのと》と言ふ。上滝《かうたき》のお父さんの命名なりと言へば、一風《いつぷう》変りたる名を好むは遺伝的趣味の一つなるべし。書は中々|巧《たく》みなり。歌も句も素人《しろうと》並みに作る。「新内《しんない》に下見《したみ》おろせば燈籠《とうろ》かな」の作あり。
 野口真造《のぐちしんざう》 これも小学以来の友だちなり。呉服屋|大彦《だいひこ》の若旦那《わかだんな》。但し余り若旦那らしからず。品行方正にして学問好きなり。自宅の門を出る時にも、何か出かたの気に入らざる時にはもう一度家へ引返し、更に出直《でなほ》すと言ふ位なれば、神経質なること想《おも》ふべし。小学時代に僕と冒険小説を作る。僕よりもうまかりしかも知れず。
 西川英次郎《にしかはえいじらう》 中学以来の友だちなり。僕も勿論秀才なれども西川の秀才は僕の比にあらず。東京の農科大学を出《いで》、今は鳥取《とつとり》の農林学校に在り。諢名《あだな》はライオン、或はライ公と言ふ。容貌《ようばう》、栄養不良のライオンに似たるが故なり。中学時代には一しよに英語を勉強し、「猟人《れふじん》日記」、「サツフオ」、「ロスメルスホルム」、「タイイス」の英訳などを読みしを記憶す。その外《ほか》柔道、水泳|等《とう》も西川と共に稽古《けいこ》したり。震災の少し前に西洋より帰り、舶来《はくらい》の書を悉《ことごとく》焼きたりと言ふ。リアリストと言ふよりもおのづからセンテイメンタリズムを脱せるならん。この間《あひだ》鳥取《とつとり》の柿《かき》を貰ふ。お礼にバトラアの本をやる約束をしてまだ送らず。尤《もつと》も柿の三分の一は渋柿なり。
 中原安太郎《なかはらやすたらう》 これも中学以来の友だちなり。諢名《あだな》は狸《たぬき》、されども顔は狸に似ず。性格にも狸と言ふ所なし。西川に伯仲《はくちう》する秀才なれども、世故《せこ》には西川よりも通ぜるかも知れず。菊池寛《きくちくわん》の作品の――殊に「父帰る」の愛読者。東京の法科大学を出《いで》、三井物産《みつゐぶつさん》に入《はり》り、今は独立の商売人なり。実生活上にも適度のリアリズムを加へたる人道主義者。大金儲《おほがねまうけ》したる時には僕に別荘を買つてくれる約束なれど、未《いま》だに買つてくれぬ所を見れば、大した収入もなきものと知るべし。
 山本喜誉司《やまもときよし》 これも中学以来の友だちなり。同時に又|姻戚《いんせき》の一人《ひとり》なり。東京の農科大学を出《いで》、今は北京《ペキン》の三菱《みつびし》に在り。重大ならざる恋愛上のセンテイメンタリスト。鈴木三重吉《すずきみへきち》、久保田万太郎《くぼたまんたらう》の愛読者なれども、近頃は余り読まざるべし。風采|瀟洒《せうしや》たるにも関《かかは》らず、存外《ぞんぐわい》喧嘩《けんくわ》には負けぬ所あり。支那に棉《わた》か何か植ゑてゐるよし。
 恒藤恭《つねとうきやう》 これは高等学校以来の友だちなり。旧姓は井川《ゐがは》。冷静なる感情家と言ふものあらば、恒藤は正にその一人《ひとり》なり。京都の法科大学を出《いで》、其処《そこ》の助教授か何かになり、今はパリに留学中。僕の議論好きになりたるは全然この辛辣《しんらつ》なる論理的天才の薫陶《くんたう》による。句も作り、歌も作り、小説も作り、詩も作り、画《ゑ》も作る才人なり。尤《もつと》も今はそんなことは知らぬ顔をしてゐるのに相違なし。僕は大学に在学中、雲州《うんしう》松江《まつえ》の恒藤《つねとう》の家にひと夏|居候《ゐさふらふ》になりしことあり。その頃恒藤に煽動《せんどう》せられ、松江紀行一篇を作り、松陽新報《しようやうしんぱう》と言ふ新聞に寄す。僕の恬然《てんぜん》と本名を署して文章を公《おほやけ》にせる最初なり。細君の名は雅子《まさこ》、君子《くんし》の好逑《かうきう》と称するは斯《かか》る細君のことなるべし。
 秦豊吉《はたとよきち》 これも高等学校以来の友だちなり。松本幸四郎《まつもとかうしらう》の甥《をひ》。東京の法科大学を出《いで》、今はベルリンの三菱《みつびし》に在り、善良なる都会的才人。あらゆる僕の友人中、最も女に惚《ほ》れられるが如し。尤《もつと》も女に惚れられても、大した損はする男にあらず。永井荷風《ながゐかふう》、ゴンクウル、歌麿等《うたまろら》の信者なりしが、この頃はトルストイなどを担《かつ》ぎ出すことあり。僕にアストラカンの帽子を呉れる約束あれども、未《いま》だに何も送つて呉れず。文を行《や》るに自由なることは文壇の士にも稀なるべし。「ストリントベリイの最後の恋」は二三日に訳了せりと言ふ。
 藤岡蔵六《ふぢをかざうろく》 これも高等学校以来の友だちなり。東京の文科大学を出《いで》、今は法政大学か何かに在り。僕の友だちも多けれども、藤岡位損をした男はまづ外《ほか》にあらざるべし。藤岡の常に損をするは藤岡の悪き訣《わけ》にあらず。只藤岡の理想主義者たる為なり。それも藤岡の祖父に当《あた》る人は川ばたに蹲《うづく》まれる乞食《こじき》を見、さぞ寒からうと思ひし余り、自分も襦袢《じゆばん》一枚になりて厳冬の縁側に坐り込みし為、とうとう風を引いて死にたりと言へば、先祖代々猛烈なる理想主義者と心得《こころう》べし。この理想主義を理解せざる世間は藤岡を目《もく》して辣腕家《らつわんか》と做《な》す。滑稽《こつけい》を通り越して気の毒なり。天下の人は何《なん》と言ふとも、藤岡は断じて辣腕家《らつわんか》にあらず。欺《だま》かし易く、欺かされ易き正直|一図《いちづ》の学者なり。僕の言を疑ふものは、試みにかう考へて見るべし。――芥川龍之介は才人なり。藤岡蔵六は芥川龍之介の旧友なり、その旧友に十五年来欺されてゐる才人ありや否《いな》や。(藤岡蔵六の先輩|知己《ちき》は大抵《たいてい》哲学者や何かなるべければ、三段論法を用ふること斯くの如し。)
 その他|菊池寛《きくちくわん》、久米正雄《くめまさを》、山本有三《やまもというざう》、岡栄一郎《をかえいいちらう》、成瀬正一《なるせしやういち》、松岡譲《まつをかゆづる》、江口渙《えぐちくわん》等も学校友だちなり。然れども是等の友だちのことは既に一度以上書いてゐるか、少くとも諸公百年の後《のち》には何か書かせられる間《あひだ》がら故、此処《ここ》には書かざることとすべし。只|次手《ついで》に書き加へたきは忘れ難き亡友のことなり。
 大島敏夫《おおしまとしを》 これは小学時代の友だちなり。僕も小学時代には頭の大いなる少年なりしも、大島の頭の大いなるには一歩も二歩も遜《ゆづ》りしを記憶す。園芸を好み、文芸をも好みしが、二十《はたち》にもならざるうちに腸結核《ちやうけつかく》に罹《かか》りて死せり。何処《どこ》か老成の風ありしも夭折《えうせつ》する前兆なりしが如し。尤《もつと》も僕は気の毒にも度《たび》たび大島を泣かせては、泣虫泣虫とからかひしものなり。
 平塚逸郎《ひらつかいちらう》 これは中学時代の友だちなり。屡《しばしば》僕と見違へられしと言へば、長面|痩躯《そうく》なることは明らかなるべし。ロマンテイツクなる秀才なりしが、岡山の高等学校へはひりし後《のち》、腎臓結核《じんざうけつかく》に罹《かか》りて死せり。平塚の父は画家なりしよし、その最後の作とか言ふ大幅《たいふく》の地蔵尊を見しことあり。病と共に失恋もし、千葉《ちば》の大原《おほはら》の病院にたつた一人《ひとり》絶命せし故、最も気の毒なる友だちなるべし。一時中学の書記となり、自炊生活を営みし時、「夕月《ゆふづき》に鰺《あぢ》買ふ書記の細さかな」と自《みづか》ら病躯《びやうく》を嘲《あざけ》りしことあり。失恋せる相手も見しことあれども、今は如何《いか》になりしや知らず。
[#地から1字上げ](大正十四年一月)



底本:「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第四巻」筑摩書房
   1971(昭和46)年6月5日初版第1刷発行
   1979(昭和54)年4月10日初版第11刷発行
入力:土屋隆
校正:松永正敏
2007年6月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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終わり
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