でいたのです。しかもその人影は、私の姿が見えるや否や、咄嗟《とっさ》に間近く進み寄って、『あら、もう御帰りになるのでございますか。』と、艶《なまめか》しい声をかけるじゃありませんか。私は息苦しい一瞬の後、今日も薔薇を髪にさした勝美《かつみ》夫人を冷《ひややか》に眺めながら、やはり無言のまま会釈《えしゃく》をして、※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々《そうそう》俥《くるま》の待たせてある玄関の方へ急ぎました。この時の私の心もちは、私自身さえ意識出来なかったほど、混乱を極めていたのでしょう。私はただ、私の俥《くるま》が両国橋《りょうごくばし》の上を通る時も、絶えず口の中で呟《つぶや》いていたのは、「ダリラ」と云う名だった事を記憶しているばかりなのです。
「それ以来私は明《あきらか》に三浦の幽鬱な容子《ようす》が蔵《かく》している秘密の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》を感じ出しました。勿論その秘密の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]が、すぐ忌《い》むべき姦通《かんつう》の二字を私の心に烙《や》きつけたのは、御断《おことわ》りするまでもありますまい。
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