りやうはう》の上に酣酔《かんすゐ》したる、かの肥大|豕《ゐ》の如き満村恭平をも記憶す可し。否、否、彼の黒絽《くろろ》の羽織に抱明姜《だきめうが》の三つ紋ありしさへ、今に至つて予は忘却する能はざるなり。予は信ず。予が彼を殺害せんとするの意志を抱きしは、実にこの水楼煙火《すゐろうえんくわ》を見しの夕《ゆふべ》に始る事を。又信ず。予が殺人の動機なるものは、その発生の当初より、断じて単なる嫉妬の情にあらずして、寧《むしろ》不義を懲《こら》し不正を除かんとする道徳的憤激に存せし事を。
 爾来予は心を潜めて、満村恭平の行状に注目し、その果して予が一夕の観察に悖《もと》らざる痴漢なりや否やを検査したり。幸《さいはひ》にして予が知人中、新聞記者を業とするもの、啻《ただ》に二三子に止らざりしを以て、彼が淫虐無道の行跡の如きも、その予が視聴に入らざるものは絶無なりしと云ふも妨げざる可し。予が先輩にして且知人たる成島柳北《なるしまりうほく》先生より、彼が西京祇園《さいきやうぎをん》の妓楼に、雛妓《すうぎ》の未《いまだ》春を懐《いだ》かざるものを梳※[#「木+龍」、第4水準2−15−78]《そろう》して、以て
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