は人を嚇《おど》かす気で来ていたんじゃないの?」
「ええ、ただ毎晩十二時前後にながらみ[#「ながらみ」に傍点]取りの墓の前へ来ちゃ、ぼんやり立っていただけなんです。」
Nさんの話はこう言う海辺《うみべ》にいかにもふさわしい喜劇だった。が、誰も笑うものはなかった。のみならず皆なぜともなしに黙って足ばかり運んでいた。
「さあこの辺《へん》から引っ返すかな。」
僕等はMのこう言った時、いつのまにかもう風の落ちた、人気《ひとけ》のない渚《なぎさ》を歩いていた。あたりは広い砂の上にまだ千鳥《ちどり》の足跡《あしあと》さえかすかに見えるほど明るかった。しかし海だけは見渡す限り、はるかに弧《こ》を描《えが》いた浪打ち際に一すじの水沫《みなわ》を残したまま、一面に黒ぐろと暮れかかっていた。
「じや失敬。」
「さようなら。」
HやNさんに別れた後《のち》、僕等は格別急ぎもせず、冷びえした渚を引き返した。渚には打ち寄せる浪の音のほかに時々澄み渡った蜩《ひぐらし》の声も僕等の耳へ伝わって来た。それは少くとも三町は離れた松林に鳴いている蜩だった。
「おい、M!」
僕はいつかMより五六歩あとに歩いていた。
「何だ?」
「僕等ももう東京へ引き上げようか?」
「うん、引き上げるのも悪くはないな。」
それからMは気軽そうにティッペラリイの口笛を吹きはじめた。
[#地から1字上げ](大正十四年八月七日)
底本:「芥川龍之介全集6」ちくま文庫、筑摩書房
1987(昭和62)年3月24日第1刷発行
1993(平成5)年2月25日第6刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:大野晋
1999年1月7日公開
2004年3月9日修正
青空文庫作成ファイル:
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