んだ。
「こうなると見てはいられないから、牧野《まきの》はとうとう顔を出した。が、お蓮は何と云っても、金《きん》さんがここへ来るまでは、決して家《うち》へは帰らないと云う。その内に縁日の事だから、すぐにまわりへは人だかりが出来る。中には『やあ、別嬪《べっぴん》の気違いだ』と、大きな声を出すやつさえあるんだ。しかし犬好きなお蓮には、久しぶりに犬を抱《だ》いたのが、少しは気休めになったんだろう。ややしばらく押し問答をした後《のち》、ともかくも牧野の云う通り一応は家《うち》へ帰る事に、やっと話が片附いたんだ。が、いよいよ帰るとなっても、野次馬《やじうま》は容易に退《の》くもんじゃない。お蓮もまたどうかすると、弥勒寺橋《みろくじばし》の方へ引っ返そうとする。それを宥《なだ》めたり賺《すか》したりしながら、松井町《まついちょう》の家《うち》へつれて来た時には、さすがに牧野も外套《がいとう》の下が、すっかり汗になっていたそうだ。……」
お蓮は家《いえ》へ帰って来ると、白い子犬を抱いたなり、二階の寝室へ上《のぼ》って行った。そうして真暗な座敷の中へ、そっとこの憐れな動物を放した。犬は小さな尾を振り
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