か、挨拶《あいさつ》のしように困るのだった。
「つきましては今日《こんにち》は御年始かたがた、ちと御願いがあって参りましたんですが、――」
「何でございますか、私に出来る事でございましたら――」
まだ油断をしなかったお蓮は、ほぼその「御願い」もわかりそうな気がした。と同時にそれを切り出された場合、答うべき文句も多そうな気がした。しかし伏目《ふしめ》勝ちな牧野の妻が、静《しずか》に述べ始めた言葉を聞くと、彼女の予想は根本から、間違っていた事が明かになった。
「いえ、御願いと申しました所が、大した事でもございませんが、――実は近々《きんきん》に東京中が、森になるそうでございますから、その節はどうか牧野同様、私も御宅へ御置き下さいまし。御願いと云うのはこれだけでございます。」
相手はゆっくりこんな事を云った。その容子《ようす》はまるで彼女の言葉が、いかに気違いじみているかも、全然気づいていないようだった。お蓮は呆気《あっけ》にとられたなり、しばらくはただ外光に背《そむ》いた、この陰気な女の姿を見つめているよりほかはなかった。
「いかがでございましょう? 置いて頂けましょうか?」
お蓮は
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