。」
 お蓮は眼の悪い傭《やと》い婆さんとランプの火を守りながら、気味悪そうにこんな会話を交換する事もないではなかった。
 旦那の牧野《まきの》は三日にあげず、昼間でも役所の帰り途に、陸軍一等主計《りくぐんいっとうしゅけい》の軍服を着た、逞《たくま》しい姿を運んで来た。勿論《もちろん》日が暮れてから、厩橋《うまやばし》向うの本宅を抜けて来る事も稀ではなかった。牧野はもう女房ばかりか、男女《なんにょ》二人の子持ちでもあった。
 この頃|丸髷《まるまげ》に結《ゆ》ったお蓮は、ほとんど宵毎《よいごと》に長火鉢を隔てながら、牧野の酒の相手をした。二人の間の茶ぶ台には、大抵《たいてい》からすみや海鼠腸《このわた》が、小綺麗な皿小鉢を並べていた。
 そう云う時には過去の生活が、とかくお蓮の頭の中に、はっきり浮んで来勝ちだった。彼女はあの賑やかな家や朋輩《ほうばい》たちの顔を思い出すと、遠い他国へ流れて来た彼女自身の便りなさが、一層心に沁《し》みるような気がした。それからまた以前よりも、ますます肥《ふと》って来た牧野の体が、不意に妙な憎悪《ぞうお》の念を燃え立たせる事も時々あった。
 牧野は始終愉快
前へ 次へ
全53ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング