う声に驚かされたお蓮《れん》は、やむを得ず気のない体を起して、薄暗い玄関へ出かけて行った。すると北向きの格子戸《こうしど》が、軒さきの御飾りを透《すか》せている、――そこにひどく顔色の悪い、眼鏡《めがね》をかけた女が一人、余り新しくない肩掛をしたまま、俯向《うつむ》き勝に佇《たたず》んでいた。
「どなた様でございますか?」
 お蓮はそう尋ねながら、相手の正体《しょうたい》を直覚していた。そうしてこの根《ね》の抜けた丸髷《まるまげ》に、小紋《こもん》の羽織の袖《そで》を合せた、どこか影の薄い女の顔へ、じっと眼を注いでいた。
「私《わたくし》は――」
 女はちょいとためらった後《のち》、やはり俯向き勝に話し続けた。
「私《わたくし》は牧野の家内でございます。滝《たき》と云うものでございます。」
 今度はお蓮が口ごもった。
「さようでございますか。私《わたくし》は――」
「いえ、それはもう存じて居ります。牧野が始終御世話になりますそうで、私からも御礼を申し上げます。」
 女の言葉は穏やかだった。皮肉らしい調子なぞは、不思議なほど罩《こも》っていなかった。それだけまたお蓮は何と云って好《よ》いか、挨拶《あいさつ》のしように困るのだった。
「つきましては今日《こんにち》は御年始かたがた、ちと御願いがあって参りましたんですが、――」
「何でございますか、私に出来る事でございましたら――」
 まだ油断をしなかったお蓮は、ほぼその「御願い」もわかりそうな気がした。と同時にそれを切り出された場合、答うべき文句も多そうな気がした。しかし伏目《ふしめ》勝ちな牧野の妻が、静《しずか》に述べ始めた言葉を聞くと、彼女の予想は根本から、間違っていた事が明かになった。
「いえ、御願いと申しました所が、大した事でもございませんが、――実は近々《きんきん》に東京中が、森になるそうでございますから、その節はどうか牧野同様、私も御宅へ御置き下さいまし。御願いと云うのはこれだけでございます。」
 相手はゆっくりこんな事を云った。その容子《ようす》はまるで彼女の言葉が、いかに気違いじみているかも、全然気づいていないようだった。お蓮は呆気《あっけ》にとられたなり、しばらくはただ外光に背《そむ》いた、この陰気な女の姿を見つめているよりほかはなかった。
「いかがでございましょう? 置いて頂けましょうか?」
 お蓮は舌が剛《こわ》ばったように、何とも返事が出来なかった。いつか顔を擡《もた》げた相手は、細々と冷たい眼を開《あ》きながら、眼鏡《めがね》越しに彼女を見つめている、――それがなおさらお蓮には、すべてが一場の悪夢《あくむ》のような、気味の悪い心地を起させるのだった。
「私はもとよりどうなっても、かまわない体でございますが、万一路頭に迷うような事がありましては、二人の子供が可哀《かわい》そうでございます。どうか御面倒でもあなたの御宅へ、お置きなすって下さいまし。」
 牧野の妻はこう云うと、古びた肩掛に顔を隠しながら、突然しくしく泣き始めた。すると何故《なぜ》か黙っていたお蓮も、急に悲しい気がして来た。やっと金《きん》さんにも遇《あ》える時が来たのだ、嬉しい。嬉しい。――彼女はそう思いながら、それでも春着の膝の上へ、やはり涙を落している彼女自身を見出《みいだ》したのだった。
 が、何分《なんぷん》か過ぎ去った後《のち》、お蓮がふと気がついて見ると、薄暗い北向きの玄関には、いつのまに相手は帰ったのか、誰も人影が見えなかった。

        十三

 七草《ななくさ》の夜《よ》、牧野《まきの》が妾宅へやって来ると、お蓮《れん》は早速彼の妻が、訪ねて来たいきさつ[#「いきさつ」に傍点]を話して聞かせた。が、牧野は案外平然と、彼女に耳を借したまま、マニラの葉巻ばかり燻《くゆ》らせていた。
「御新造《ごしんぞ》はどうかしているんですよ。」
 いつか興奮し出したお蓮は、苛立《いらだ》たしい眉《まゆ》をひそめながら、剛情に猶《なお》も云い続けた。
「今の内に何とかして上げないと、取り返しのつかない事になりますよ。」
「まあ、なったらなった時の事さ。」
 牧野は葉巻の煙の中から、薄眼《うすめ》に彼女を眺めていた。
「嚊《かかあ》の事なんぞを案じるよりゃ、お前こそ体に気をつけるが好《い》い。何だかこの頃はいつ来て見ても、ふさいでばかりいるじゃないか?」
「私《わたし》はどうなっても好《い》いんですけれど、――」
「好《よ》くはないよ。」
 お蓮は顔を曇らせたなり、しばらくは口を噤《つぐ》んでいた。が、突然涙ぐんだ眼を挙げると、
「あなた、後生《ごしょう》ですから、御新造《ごしんぞ》を捨てないで下さい。」と云った。
 牧野は呆気《あっけ》にとられたのか、何とも答を返さなかった。
「後生ですか
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