たまま、青い物を吐いて死んでいたんです。気がなさそうに長火鉢の前に、寝てばかりいるようになってから、かれこれ半月にもなりましたかしら。……」
 ちょうど薬研堀《やげんぼり》の市《いち》の立つ日、お蓮は大きな鏡台の前に、息の絶えた犬を見出した。犬は婆さんが話した通り、青い吐物《とぶつ》の流れた中に、冷たい体を横たえていた。これは彼女もとうの昔に、覚悟をきめていた事だった。前の犬には生別《いきわか》れをしたが、今度の犬には死別《しにわか》れをした。所詮《しょせん》犬は飼えないのが、持って生まれた因縁《いんねん》かも知れない。――そんな事がただ彼女の心へ、絶望的な静かさをのしかからせたばかりだった。
 お蓮はそこへ坐ったなり、茫然と犬の屍骸《しがい》を眺めた。それから懶《ものう》い眼を挙げて、寒い鏡の面《おもて》を眺めた。鏡には畳に仆《たお》れた犬が、彼女と一しょに映っていた。その犬の影をじっと見ると、お蓮は目まいでも起ったように、突然両手に顔を掩《おお》った。そうしてかすかな叫び声を洩らした。
 鏡の中の犬の屍骸は、いつか黒かるべき鼻の先が、赭《あか》い色に変っていたのだった。

        十一

 妾宅の新年は寂しかった。門には竹が立てられたり、座敷には蓬莱《ほうらい》が飾られたりしても、お蓮《れん》は独り長火鉢の前に、屈托《くったく》らしい頬杖《ほおづえ》をついては、障子の日影が薄くなるのに、懶《ものう》い眼ばかり注いでいた。
 暮に犬に死なれて以来、ただでさえ浮かない彼女の心は、ややともすると発作的《ほっさてき》な憂鬱に襲われ易かった。彼女は犬の事ばかりか、未《いまだ》にわからない男の在りかや、どうかすると顔さえ知らない、牧野《まきの》の妻の身の上までも、いろいろ思い悩んだりした。と同時にまたその頃から、折々妙な幻覚にも、悩まされるようになり始めた。――
 ある時は床《とこ》へはいった彼女が、やっと眠に就《つ》こうとすると、突然何かがのったように、夜着の裾がじわり[#「じわり」に傍点]と重くなった。小犬はまだ生きていた時分、彼女の蒲団の上へ来ては、よくごろりと横になった。――ちょうどそれと同じように、柔かな重みがかかったのだった。お蓮はすぐに枕《まくら》から、そっと頭《かしら》を浮かせて見た。が、そこには掻巻《かいまき》の格子模様《こうしもよう》が、ランプの光に浮んでいるほかは、何物もいるとは思われなかった。………
 またある時は鏡台の前に、お蓮が髪を直していると、鏡へ映った彼女の後《うしろ》を、ちらりと白い物が通った。彼女はそれでも気をとめずに、水々しい鬢《びん》を掻《か》き上げていた。するとその白い物は、前とは反対の方向へ、もう一度|咄嗟《とっさ》に通り過ぎた。お蓮は櫛《くし》を持ったまま、とうとう後《うしろ》を振り返った。しかし明《あかる》い座敷の中には、何も生き物のけはいはなかった。やっぱり眼のせいだったかしら、――そう思いながら、鏡へ向うと、しばらくの後《のち》白い物は、三度彼女の後《うしろ》を通った。……
 またある時は長火鉢の前に、お蓮が独り坐っていると、遠い外の往来《おうらい》に、彼女の名を呼ぶ声が聞えた。それは門の竹の葉が、ざわめく音に交《まじ》りながら、たった一度聞えたのだった。が、その声は東京へ来ても、始終心にかかっていた男の声に違いなかった。お蓮は息をひそめるように、じっと注意深い耳を澄ませた。その時また往来に、今度は前よりも近々《ちかぢか》と、なつかしい男の声が聞えた。と思うといつのまにか、それは風に吹き散らされる犬の声に変っていた。……
 またある時はふと眼がさめると、彼女と一つ床《とこ》の中に、いない筈の男が眠っていた。迫った額《ひたい》、長い睫毛《まつげ》、――すべてが夜半《やはん》のランプの光に、寸分《すんぶん》も以前と変らなかった。左の眼尻《めじり》に黒子《ほくろ》があったが、――そんな事さえ検《くら》べて見ても、やはり確かに男だった。お蓮は不思議に思うよりは、嬉しさに心を躍《おど》らせながら、そのまま体も消え入るように、男の頸《くび》へすがりついた。しかし眠を破られた男が、うるさそうに何か呟《つぶや》いた声は、意外にも牧野に違いなかった。のみならずお蓮はその刹那《せつな》に、実際酒臭い牧野の頸《くび》へ、しっかり両手をからんでいる彼女自身を見出したのだった。
 しかしそう云う幻覚のほかにも、お蓮の心を擾《さわが》すような事件は、現実の世界からも起って来た。と云うのは松もとれない内に、噂に聞いていた牧野の妻が、突然訪ねて来た事だった。

        十二

 牧野《まきの》の妻が訪れたのは、生憎《あいにく》例の雇婆《やといばあ》さんが、使いに行っている留守《るす》だった。案内を請
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