んだ。
「こうなると見てはいられないから、牧野《まきの》はとうとう顔を出した。が、お蓮は何と云っても、金《きん》さんがここへ来るまでは、決して家《うち》へは帰らないと云う。その内に縁日の事だから、すぐにまわりへは人だかりが出来る。中には『やあ、別嬪《べっぴん》の気違いだ』と、大きな声を出すやつさえあるんだ。しかし犬好きなお蓮には、久しぶりに犬を抱《だ》いたのが、少しは気休めになったんだろう。ややしばらく押し問答をした後《のち》、ともかくも牧野の云う通り一応は家《うち》へ帰る事に、やっと話が片附いたんだ。が、いよいよ帰るとなっても、野次馬《やじうま》は容易に退《の》くもんじゃない。お蓮もまたどうかすると、弥勒寺橋《みろくじばし》の方へ引っ返そうとする。それを宥《なだ》めたり賺《すか》したりしながら、松井町《まついちょう》の家《うち》へつれて来た時には、さすがに牧野も外套《がいとう》の下が、すっかり汗になっていたそうだ。……」
 お蓮は家《いえ》へ帰って来ると、白い子犬を抱いたなり、二階の寝室へ上《のぼ》って行った。そうして真暗な座敷の中へ、そっとこの憐れな動物を放した。犬は小さな尾を振りながら、嬉しそうにそこらを歩き廻った。それは以前飼っていた時、彼女の寝台《ねだい》から石畳の上へ、飛び出したのと同じ歩きぶりだった。
「おや、――」
 座敷の暗いのを思い出したお蓮は、不思議そうにあたりを見廻した。するといつか天井からは、火をともした瑠璃燈《るりとう》が一つ、彼女の真上に吊下《つりさが》っていた。
「まあ、綺麗だ事。まるで昔に返ったようだねえ。」
 彼女はしばらくはうっとりと、燦《きら》びやかな燈火《ともしび》を眺めていた。が、やがてその光に、彼女自身の姿を見ると、悲しそうに二三度|頭《かしら》を振った。
「私は昔の※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]蓮《けいれん》じゃない。今はお蓮と云う日本人《にほんじん》だもの。金《きん》さんも会いに来ない筈だ。けれども金さんさえ来てくれれば、――」
 ふと頭《かしら》を擡《もた》げたお蓮は、もう一度驚きの声を洩《も》らした。見ると小犬のいた所には、横になった支那人が一人、四角な枕へ肘《ひじ》をのせながら、悠々と鴉片《あへん》を燻《くゆ》らせている! 迫った額、長い睫毛《まつげ》、それから左の目尻《めじり》の黒子《ほ
前へ 次へ
全27ページ中25ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング