歩きながら、とうとう相手に気づかれなかったのも、畢竟《ひっきょう》は縁日の御蔭なんだ。
「往来にはずっと両側に、縁日商人《えんにちあきんど》が並んでいる。そのカンテラやランプの明りに、飴屋《あめや》の渦巻の看板だの豆屋の赤い日傘だのが、右にも左にもちらつくんだ。が、お蓮はそんな物には、全然|側目《わきめ》もふらないらしい。ただ心もち俯向《うつむ》いたなり、さっさと人ごみを縫って行くんだ。何でも遅れずに歩くのは、牧野にも骨が折れたそうだから、余程《よっぽど》先を急いでいたんだろう。
「その内に弥勒寺橋《みろくじばし》の袂《たもと》へ来ると、お蓮はやっと足を止めて、茫然とあたりを見廻したそうだ。あすこには河岸《かし》へ曲った所に、植木屋ばかりが続いている。どうせ縁日物《えんにちもの》だから、大した植木がある訳じゃないが、ともかくも松とか檜《ひのき》とかが、ここだけは人足《ひとあし》の疎《まば》らな通りに、水々しい枝葉《えだは》を茂らしているんだ。
「こんな所へ来たは好《い》いが、一体どうする気なんだろう?――牧野はそう疑いながら、しばらくは橋づめの電柱の蔭に、妾《めかけ》の容子《ようす》を窺《うかが》っていた。が、お蓮は不相変《あいかわらず》、ぼんやりそこに佇《たたず》んだまま、植木の並んだのを眺めている。そこで牧野は相手の後《うしろ》へ、忍び足にそっと近よって見た。するとお蓮は嬉しそうに、何度もこう云う独り語《ごと》を呟《つぶや》いてたと云うじゃないか?――『森になったんだねえ。とうとう東京も森になったんだねえ。』………
十七
「それだけならばまだ好《よ》いが、――」
Kはさらに話し続けた。
「そこへ雪のような小犬が一匹、偶然人ごみを抜けて来ると、お蓮《れん》はいきなり両手を伸ばして、その白犬を抱《だ》き上げたそうだ。そうして何を云うかと思えば、『お前も来てくれたのかい? 随分ここまでは遠かったろう。何しろ途中には山もあれば、大きな海もあるんだからね。ほんとうにお前に別れてから、一日も泣かずにいた事はないよ。お前の代《かわ》りに飼った犬には、この間死なれてしまうしさ。』なぞと、夢のような事をしゃべり出すんだ。が、小犬は人懐《ひとな》つこいのか、啼《な》きもしなければ噛《か》みつきもしない。ただ鼻だけ鳴らしては、お蓮の手や頬《ほお》を舐《な》め廻す
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