ら、ねえ、あなた――」
お蓮は涙を隠すように、黒繻子《くろじゅす》の襟へ顎《あご》を埋《うず》めた。
「御新造は世の中にあなた一人が、何よりも大事なんですもの。それを考えて上げなくっちゃ、薄情すぎると云うもんですよ。私の国でも女と云うものは、――」
「好いよ。好いよ。お前の云う事はよくわかったから、そんな心配なんぞはしない方が好いよ。」
葉巻《はまき》を吸うのも忘れた牧野は、子供を欺《だま》すようにこう云った。
「一体この家《うち》が陰気だからね、――そうそう、この間はまた犬が死んだりしている。だからお前も気がふさぐんだ。その内にどこか好《い》い所があったら、早速《さっそく》引越してしまおうじゃないか? そうして陽気に暮すんだね、――何、もう十日も経《た》ちさえすりゃ、おれは役人をやめてしまうんだから、――」
お蓮はほとんどその晩中、いくら牧野が慰めても、浮かない顔色《かおいろ》を改めなかった。……
「御新造《ごしんぞ》の事では旦那様《だんなさま》も、随分御心配なすったもんですが、――」
Kにいろいろ尋《き》かれた時、婆さんはまた当時の容子《ようす》をこう話したとか云う事だった。
「何しろ今度の御病気は、あの時分にもうきざしていたんですから、やっぱりまあ旦那様始め、御諦《おあきら》めになるほかはありますまい。現に本宅の御新造が、不意に横網《よこあみ》へ御出でなすった時でも、私《わたくし》が御使いから帰って見ると、こちらの御新造は御玄関先へ、ぼんやりとただ坐っていらっしゃる、――それを眼鏡越しに睨《にら》みながら、あちらの御新造はまた上《あが》ろうともなさらず、悪丁寧《わるでいねい》な嫌味《いやみ》のありったけを並べて御出でなさる始末《しまつ》なんです。
「そりゃ御主人が毒づかれるのは、蔭で聞いている私にも、好《い》い気のするもんじゃありません。けれども私がそこへ出ると、余計事がむずかしいんです。――と云うのは私も四五年|前《まえ》には、御本宅に使われていたもんですから、あちらの御新造に見つかったが最後、反《かえ》って先様《さきさま》の御腹立ちを煽《あお》る事になるかも知れますまい。そんな事があっては大変ですから、私は御本宅の御新造が、さんざん悪態《あくたい》を御つきになった揚句《あげく》、御帰りになってしまうまでは、とうとう御玄関の襖《ふすま》の蔭から、顔を
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