舌が剛《こわ》ばったように、何とも返事が出来なかった。いつか顔を擡《もた》げた相手は、細々と冷たい眼を開《あ》きながら、眼鏡《めがね》越しに彼女を見つめている、――それがなおさらお蓮には、すべてが一場の悪夢《あくむ》のような、気味の悪い心地を起させるのだった。
「私はもとよりどうなっても、かまわない体でございますが、万一路頭に迷うような事がありましては、二人の子供が可哀《かわい》そうでございます。どうか御面倒でもあなたの御宅へ、お置きなすって下さいまし。」
 牧野の妻はこう云うと、古びた肩掛に顔を隠しながら、突然しくしく泣き始めた。すると何故《なぜ》か黙っていたお蓮も、急に悲しい気がして来た。やっと金《きん》さんにも遇《あ》える時が来たのだ、嬉しい。嬉しい。――彼女はそう思いながら、それでも春着の膝の上へ、やはり涙を落している彼女自身を見出《みいだ》したのだった。
 が、何分《なんぷん》か過ぎ去った後《のち》、お蓮がふと気がついて見ると、薄暗い北向きの玄関には、いつのまに相手は帰ったのか、誰も人影が見えなかった。

        十三

 七草《ななくさ》の夜《よ》、牧野《まきの》が妾宅へやって来ると、お蓮《れん》は早速彼の妻が、訪ねて来たいきさつ[#「いきさつ」に傍点]を話して聞かせた。が、牧野は案外平然と、彼女に耳を借したまま、マニラの葉巻ばかり燻《くゆ》らせていた。
「御新造《ごしんぞ》はどうかしているんですよ。」
 いつか興奮し出したお蓮は、苛立《いらだ》たしい眉《まゆ》をひそめながら、剛情に猶《なお》も云い続けた。
「今の内に何とかして上げないと、取り返しのつかない事になりますよ。」
「まあ、なったらなった時の事さ。」
 牧野は葉巻の煙の中から、薄眼《うすめ》に彼女を眺めていた。
「嚊《かかあ》の事なんぞを案じるよりゃ、お前こそ体に気をつけるが好《い》い。何だかこの頃はいつ来て見ても、ふさいでばかりいるじゃないか?」
「私《わたし》はどうなっても好《い》いんですけれど、――」
「好《よ》くはないよ。」
 お蓮は顔を曇らせたなり、しばらくは口を噤《つぐ》んでいた。が、突然涙ぐんだ眼を挙げると、
「あなた、後生《ごしょう》ですから、御新造《ごしんぞ》を捨てないで下さい。」と云った。
 牧野は呆気《あっけ》にとられたのか、何とも答を返さなかった。
「後生ですか
前へ 次へ
全27ページ中18ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング