した。しかしまだ十歩と歩かないうちに、ふと赤革の手袋を一つ落していることを発見した。手袋は巻煙草に火をつける時、右の手ばかり脱《ぬ》いだのを持って歩いていたのだった。彼は後ろをふり返った。すると手袋はプラットフォオムの先に、手のひらを上に転《ころ》がっていた。それはちょうど無言のまま、彼を呼びとめているようだった。
 保吉は霜曇りの空の下《した》に、たった一つ取り残された赤革の手袋の心を感じた。同時に薄ら寒い世界の中にも、いつか温《あたたか》い日の光のほそぼそとさして来ることを感じた。
[#地から1字上げ](大正十三年四月)



底本:「芥川龍之介全集5」ちくま文庫、筑摩書房
   1987(昭和62)年2月24日第1刷発行
   1995(平成7)年4月10日第6刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年1月5日公開
2004年3月9日修正
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