わなわな震《ふる》える手に、戸のノッブを探り当てた。が、戸に錠の下りている事は、すぐにそのノッブが教えてくれた。
すると今度は櫛《くし》かピンかが、突然ばたりと落ちる音が聞えた。しかしそれを拾い上げる音は、いくら耳を澄ましていても、なぜか陳には聞えなかった。
こう云う物音は一《びと》つ一《ひと》つ、文字通り陳の心臓を打った。陳はその度に身を震わせながら、それでも耳だけは剛情にも、じっと寝室の戸へ押しつけていた。しかし彼の興奮が極度に達している事は、時々彼があたりへ投げる、気違いじみた視線にも明かであった。
苦しい何秒かが過ぎた後、戸の向うからはかすかながら、ため息をつく声が聞えて来た。と思うとすぐに寝台《しんだい》の上へも、誰かが静に上《あが》ったようであった。
もしこんな状態が、もう一分続いたなら、陳は戸の前に立ちすくんだまま、失心してしまったかも知れなかった。が、この時戸から洩れる蜘蛛《くも》の糸ほどの朧げな光が、天啓のように彼の眼を捉《とら》えた。陳は咄嗟《とっさ》に床《ゆか》へ這《は》うと、ノッブの下にある鍵穴《かぎあな》から、食い入るような視線を室内へ送った。
その刹那に陳の眼の前には、永久に呪《のろ》わしい光景が開けた。…………
横浜。
書記の今西《いまにし》は内隠しへ、房子の写真を還《かえ》してしまうと、静に長椅子《ながいす》から立ち上った。そうして例の通り音もなく、まっ暗な次の間《ま》へはいって行った。
スウィッチを捻《ひね》る音と共に、次の間《ま》はすぐに明くなった。その部屋の卓上電燈の光は、いつの間《ま》にそこへ坐ったか、タイプライタアに向っている今西の姿を照し出した。
今西の指はたちまちの内に、目まぐるしい運動を続け出した。と同時にタイプライタアは、休みない響を刻《きざ》みながら、何行かの文字《もじ》が断続した一枚の紙を吐き始めた。
「拝啓、貴下の夫人が貞操を守られざるは、この上なおも申上ぐべき必要無き事と存じ候。されど貴下は溺愛の余り……」
今西の顔はこの瞬間、憎悪《ぞうお》そのもののマスクであった。
鎌倉。
陳《ちん》の寝室の戸は破れていた。が、その外《ほか》は寝台も、西洋※[#「巾+厨」、第4水準2−8−91]《せいようがや》も、洗面台も、それから明るい電燈の光も、ことごとく一瞬間以前と同じであった。
陳彩《ちんさい》は部屋の隅に佇《たたず》んだまま、寝台の前に伏し重《かさ》なった、二人の姿を眺めていた。その一人は房子《ふさこ》であった。――と云うよりもむしろさっきまでは、房子だった「物」であった。この顔中紫に腫《は》れ上った「物」は、半ば舌を吐いたまま、薄眼《うすめ》に天井を見つめていた。もう一人は陳彩であった。部屋の隅にいる陳彩と、寸分も変らない陳彩であった。これは房子だった「物」に重なりながら、爪も見えないほど相手の喉《のど》に、両手の指を埋《うず》めていた。そうしてその露《あら》わな乳房《ちぶさ》の上に、生死もわからない頭を凭《もた》せていた。
何分かの沈黙が過ぎた後《のち》、床《ゆか》の上の陳彩は、まだ苦しそうに喘《あえ》ぎながら、徐《おもむろ》に肥《ふと》った体を起した。が、やっと体を起したと思うと、すぐまた側にある椅子《いす》の上へ、倒れるように腰を下してしまった。
その時部屋の隅にいる陳彩は、静に壁際を離れながら、房子だった「物」の側に歩み寄った。そうしてその紫に腫上《はれあが》った顔へ、限りなく悲しそうな眼を落した。
椅子の上の陳彩は、彼以外の存在に気がつくが早いか、気違いのように椅子から立ち上った。彼の顔には、――血走った眼の中には、凄まじい殺意が閃《ひらめ》いていた。が、相手の姿を一目見るとその殺意は見る見る内に、云いようのない恐怖に変って行った。
「誰だ、お前は?」
彼は椅子の前に立ちすくんだまま、息のつまりそうな声を出した。
「さっき松林の中を歩いていたのも、――裏門からそっと忍びこんだのも、――この窓際に立って外を見ていたのも、――おれの妻を、――房子を――」
彼の言葉は一度途絶えてから、また荒々しい嗄《しわが》れ声になった。
「お前だろう。誰だ、お前は?」
もう一人の陳彩は、しかし何とも答えなかった。その代りに眼を挙げて、悲しそうに相手の陳彩を眺めた。すると椅子の前の陳彩は、この視線に射すくまされたように、無気味《ぶきみ》なほど大きな眼をしながら、だんだん壁際の方へすさり始めた。が、その間も彼の唇《くちびる》は、「誰だ、お前は?」を繰返すように、時々声もなく動いていた。
その内にもう一人の陳彩は、房子だった「物」の側に跪《ひざまず》くと、そっとその細い頸《くび》へ手を廻した。それから頸に残っている、無残な指の痕《あと》に唇を当てた。
明い電燈の光に満ちた、墓窖《はかあな》よりも静な寝室の中には、やがてかすかな泣き声が、途切《とぎ》れ途切れに聞え出した。見るとここにいる二人の陳彩は、壁際に立った陳彩も、床に跪いた陳彩のように、両手に顔を埋めながら………
東京。
突然『影』の映画が消えた時、私は一人の女と一しょに、ある活動写真館のボックスの椅子に坐っていた。
「今の写真はもうすんだのかしら。」
女は憂鬱な眼を私に向けた。それが私には『影』の中の房子の眼を思い出させた。
「どの写真?」
「今のさ。『影』と云うのだろう。」
女は無言のまま、膝の上のプログラムを私に渡してくれた。が、それにはどこを探しても、『影』と云う標題は見当らなかった。
「するとおれは夢を見ていたのかな。それにしても眠った覚えのないのは妙じゃないか。おまけにその『影』と云うのが妙な写真でね。――」
私は手短かに『影』の梗概《こうがい》を話した。
「その写真なら、私も見た事があるわ。」
私が話し終った時、女は寂しい眼の底に微笑の色を動かしながら、ほとんど聞えないようにこう返事をした。
「お互に『影』なんぞは、気にしないようにしましょうね。」
[#地から1字上げ](大正九年七月十四日)
底本:「芥川龍之介全集4」ちくま文庫、筑摩書房
1987(昭和62)年1月27日第1刷発行
1996(平成8)年7月15日第8刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:もりみつじゅんじ
1999年3月1日公開
2004年3月8日修正
青空文庫作成ファイル:
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