目ざめて来た。それは誰かが後にいて、じっとその視線を彼女の上に集注しているような心もちである。
 が、寝室の中には彼女のほかに、誰も人のいる理由はない。もしいるとすれば、――いや、戸には寝る前に、ちゃんと錠《じょう》が下《おろ》してある。ではこんな気がするのは、――そうだ。きっと神経が疲れているからに相違ない。彼女は薄明《うすあかる》い松林を見下しながら、何度もこう考え直そうとした。しかし誰かが見守っていると云う感じは、いくら一生懸命に打ち消して見ても、だんだん強くなるばかりである。
 房子はとうとう思い切って、怖《こ》わ怖《ご》わ後《うしろ》を振り返って見た。が、果して寝室の中には、飼《か》い馴《な》れた三毛猫の姿さえ見えない。やはり人がいるような気がしたのは、病的な神経の仕業《しわざ》であった。――と思ったのはしかし言葉通り、ほんの一瞬の間だけである。房子はすぐにまた前の通り、何か眼に見えない物が、この部屋を満たした薄暗がりのどこかに、潜《ひそ》んでいるような心もちがした。しかし以前よりさらに堪えられない事には、今度はその何物かの眼が、窓を後にした房子の顔へ、まともに視線を焼きつけている。
 房子は全身の戦慄《せんりつ》と闘いながら、手近の壁へ手をのばすと、咄嗟《とっさ》に電燈のスウィッチを捻《ひね》った。と同時に見慣れた寝室は、月明りに交《まじ》った薄暗がりを払って、頼もしい現実へ飛び移った。寝台《しんだい》、西洋※[#「巾+厨」、第4水準2−8−91]《せいようがや》、洗面台、――今はすべてが昼のような光の中に、嬉しいほどはっきり浮き上っている。その上それが何一つ、彼女が陳と結婚した一年以前と変っていない。こう云う幸福な周囲を見れば、どんなに気味の悪い幻《まぼろし》も、――いや、しかし怪しい何物かは、眩《まぶ》しい電燈の光にも恐れず、寸刻もたゆまない凝視の眼を房子の顔に注いでいる。彼女は両手に顔を隠すが早いか、無我夢中に叫ぼうとした。が、なぜか声が立たない。その時彼女の心の上には、あらゆる経験を超越した恐怖が、……
 房子は一週間以前の記憶から、吐息《といき》と一しょに解放された。その拍子に膝《ひざ》の三毛猫は、彼女の膝を飛び下りると、毛並みの美しい背を高くして、快さそうに欠伸《あくび》をした。
「そんな気は誰でも致すものでございますよ。爺《じい》やなどはいつぞや御庭の松へ、鋏《はさみ》をかけて居りましたら、まっ昼間《ぴるま》空に大勢の子供の笑い声が致したとか、そう申して居りました。それでもあの通り気が違う所か、御用の暇には私へ小言《こごと》ばかり申して居るじゃございませんか。」
 老女は紅茶の盆《ぼん》を擡《もた》げながら、子供を慰めるようにこう云った。それを聞くと房子の頬《ほお》には、始めて微笑らしい影がさした。
「それこそ御隣の坊ちゃんが、おいたをなすったのに違いないわ。そんな事にびっくりするようじゃ、爺やもやっぱり臆病なのね。――あら、おしゃべりをしている内に、とうとう日が暮れてしまった。今夜は旦那《だんな》様が御帰りにならないから、好いようなものだけれど、――御湯は? 婆や。」
「もうよろしゅうございますとも。何ならちょいと私が御加減を見て参りましょうか。」
「好いわ。すぐにはいるから。」
 房子はようやく気軽そうに、壁側《かべぎわ》の籐椅子《とういす》から身を起した。
「また今夜も御隣の坊ちゃんたちは、花火を御揚げなさるかしら。」
 老女が房子の後《あと》から、静に出て行ってしまった跡《あと》には、もう夾竹桃も見えなくなった、薄暗い空虚の客間が残った。すると二人に忘れられた、あの小さな三毛猫は、急に何か見つけたように、一飛びに戸口へ飛んで行った。そうしてまるで誰かの足に、体を摺《す》りつけるような身ぶりをした。が、部屋に拡がった暮色の中には、その三毛猫の二つの眼が、無気味な燐光《りんこう》を放つほかに、何もいるようなけはいは見えなかった。……………

 横浜。
 日華洋行《にっかようこう》の宿直室には、長椅子《ながいす》に寝ころんだ書記の今西《いまにし》が、余り明くない電燈の下に、新刊の雑誌を拡《ひろ》げていた。が、やがて手近の卓子《テーブル》の上へ、その雑誌をばたりと抛《なげ》ると、大事そうに上衣《うわぎ》の隠しから、一枚の写真をとり出した。そうしてそれを眺めながら、蒼白い頬にいつまでも、幸福らしい微笑を浮べていた。
 写真は陳彩《ちんさい》の妻の房子《ふさこ》が、桃割《ももわ》れに結《ゆ》った半身であった。
 
 鎌倉。
 下《くだ》り終列車の笛が、星月夜の空に上《のぼ》った時、改札口を出た陳彩《ちんさい》は、たった一人跡に残って、二つ折の鞄《かばん》を抱えたまま、寂しい構内を眺めまわした。すると電燈の薄暗い壁側《かべぎわ》のベンチに坐っていた、背の高い背広の男が一人、太い籐《とう》の杖《つえ》を引きずりながら、のそのそ陳の側へ歩み寄った。そうして闊達《かったつ》に鳥打帽を脱ぐと、声だけは低く挨拶《あいさつ》をした。
「陳さんですか? 私は吉井《よしい》です。」
 陳はほとんど無表情に、じろりと相手の顔を眺めた。
「今日《こんにち》は御苦労でした。」
「先ほど電話をかけましたが、――」
「その後《ご》何もなかったですか?」
 陳の語気には、相手の言葉を弾《はじ》き除《の》けるような力があった。
「何もありません。奥さんは医者が帰ってしまうと、日暮までは婆やを相手に、何か話して御出ででした。それから御湯や御食事をすませて、十時頃までは蓄音機《ちくおんき》を御聞きになっていたようです。」
「客は一人も来なかったですか?」
「ええ、一人も。」
「君が監視をやめたのは?」
「十一時二十分です。」
 吉井の返答《ことば》もてきぱきしていた。
「その後《ご》終列車まで汽車はないですね。」
「ありません。上《のぼ》りも、下《くだ》りも。」
「いや、難有《ありがと》う。帰ったら里見《さとみ》君に、よろしく云ってくれ給え。」
 陳は麦藁帽《むぎわらぼう》の庇《ひさし》へ手をやると、吉井が鳥打帽を脱ぐのには眼もかけず、砂利を敷いた構外へ大股《おおまた》に歩み出した。その容子《ようす》が余り無遠慮《ぶえんりょ》すぎたせいか、吉井は陳の後姿《うしろすがた》を見送ったなり、ちょいと両肩を聳《そび》やかせた。が、すぐまた気にも止めないように、軽快な口笛を鳴らしながら、停車場《ていしゃば》前の宿屋の方へ、太い籐の杖を引きずって行った。

 鎌倉。
 一時間の後《のち》陳彩《ちんさい》は、彼等夫婦の寝室の戸へ、盗賊《とうぞく》のように耳を当てながら、じっと容子を窺《うかが》っている彼自身を発見した。寝室の外の廊下には、息のつまるような暗闇が、一面にあたりを封じていた。その中《うち》にただ一点、かすかな明りが見えるのは、戸の向うの電燈の光が、鍵穴《かぎあな》を洩れるそれであった。
 陳はほとんど破裂しそうな心臓の鼓動《こどう》を抑えながら、ぴったり戸へ当てた耳に、全身の注意を集めていた。が、寝室の中からは何の話し声も聞えなかった。その沈黙がまた陳にとっては、一層堪え難い呵責《かしゃく》であった。彼は目の前の暗闇の底に、停車場からここへ来る途中の、思いがけない出来事が、もう一度はっきり見えるような気がした。
 ……枝を交《かわ》した松の下には、しっとり砂に露の下りた、細い路が続いている。大空に澄んだ無数の星も、その松の枝の重《かさ》なったここへは、滅多《めった》に光を落して来ない。が、海の近い事は、疎《まばら》な芒《すすき》に流れて来る潮風《しおかぜ》が明かに語っている。陳はさっきからたった一人、夜《よ》と共に強くなった松脂《まつやに》の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》を嗅ぎながら、こう云う寂しい闇の中に、注意深い歩みを運んでいた。
 その内に彼はふと足を止めると、不審そうに行く手を透《す》かして見た。それは彼の家の煉瓦塀《れんがべい》が、何歩か先に黒々と、現われて来たからばかりではない、その常春藤《きづた》に蔽《おお》われた、古風な塀の見えるあたりに、忍びやかな靴の音が、突然聞え出したからである。
 が、いくら透《すか》して見ても、松や芒の闇が深いせいか、肝腎《かんじん》の姿は見る事が出来ない。ただ、咄嗟《とっさ》に感づいたのは、その足音がこちらへ来ずに、向うへ行くらしいと云う事である。
「莫迦《ばか》な、この路を歩く資格は、おればかりにある訳じゃあるまいし。」
 陳はこう心の中に、早くも疑惑を抱き出した彼自身を叱ろうとした。が、この路は彼の家の裏門の前へ出るほかには、どこへも通じていない筈である。して見れば、――と思う刹那《せつな》に陳の耳には、その裏門の戸の開く音が、折から流れて来た潮風と一しょに、かすかながらも伝わって来た。
「可笑《おか》しいぞ。あの裏門には今朝《けさ》見た時も、錠がかかっていた筈だが。」
 そう思うと共に陳彩《ちんさい》は、獲物を見つけた猟犬《りょうけん》のように、油断なくあたりへ気を配りながら、そっとその裏門の前へ歩み寄った。が、裏門の戸はしまっている。力一ぱい押して見ても、動きそうな気色《けしき》も見えないのは、いつの間《ま》にか元の通り、錠が下りてしまったらしい。陳はその戸に倚《よ》りかかりながら、膝を埋《うず》めた芒の中に、しばらくは茫然《ぼうぜん》と佇《たたず》んでいた。
「門が明くような音がしたのは、おれの耳の迷《まよい》だったかしら。」
 が、さっきの足音は、もうどこからも聞えて来ない。常春藤《きづた》の簇《むらが》った塀の上には、火の光もささない彼の家が、ひっそりと星空に聳《そび》えている。すると陳の心には、急に悲しさがこみ上げて来た。何がそんなに悲しかったか、それは彼自身にもはっきりしない。ただそこに佇《たたず》んだまま、乏《とぼ》しい虫の音《ね》に聞き入っていると、自然と涙が彼の頬へ、冷やかに流れ始めたのである。
「房子《ふさこ》。」
 陳はほとんど呻《うめ》くように、なつかしい妻の名前を呼んだ。
 するとその途端《とたん》である。高い二階の室《へや》の一つには、意外にも眩《まぶ》しい電燈がともった。
「あの窓は、――あれは、――」
 陳は際《きわ》どい息を呑んで、手近の松の幹を捉《とら》えながら、延び上るように二階の窓を見上げた。窓は、――二階の寝室の窓は、硝子《ガラス》戸をすっかり明け放った向うに、明るい室内を覗《のぞ》かせている。そうしてそこから流れる光が、塀の内に茂った松の梢《こずえ》を、ぼんやり暗い空に漂わせている。
 しかし不思議はそればかりではない。やがてその二階の窓際には、こちらへ向いたらしい人影が一つ、朧《おぼろ》げな輪廓《りんかく》を浮き上らせた。生憎《あいにく》電燈の光が後《うしろ》にあるから、顔かたちは誰だか判然しない。が、ともかくもその姿が、女でない事だけは確かである。陳は思わず塀の常春藤《きづた》を掴《つか》んで、倒れかかる体を支えながら、苦しそうに切れ切れな声を洩らした。
「あの手紙は、――まさか、――房子だけは――」
 一瞬間の後陳彩は、安々《やすやす》塀を乗り越えると、庭の松の間をくぐりくぐり、首尾《しゅび》よく二階の真下にある、客間の窓際へ忍び寄った。そこには花も葉も露に濡れた、水々しい夾竹桃《きょうちくとう》の一むらが、………
 陳はまっ暗な外の廊下《ろうか》に、乾いた唇を噛みながら、一層|嫉妬《しっと》深い聞き耳を立てた。それはこの時戸の向うに、さっき彼が聞いたような、用心深い靴の音が、二三度|床《ゆか》に響《ひび》いたからであった。
 足響《あしおと》はすぐに消えてしまった。が、興奮した陳の神経には、ほどなく窓をしめる音が、鼓膜《こまく》を刺すように聞えて来た。その後には、――また長い沈黙があった。
 その沈黙はたちまち絞《し》め木《ぎ》のように、色を失った陳の額へ、冷たい脂汗《あぶらあせ》を絞り出した。彼は
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング