きづた》の簇《むらが》った塀の上には、火の光もささない彼の家が、ひっそりと星空に聳《そび》えている。すると陳の心には、急に悲しさがこみ上げて来た。何がそんなに悲しかったか、それは彼自身にもはっきりしない。ただそこに佇《たたず》んだまま、乏《とぼ》しい虫の音《ね》に聞き入っていると、自然と涙が彼の頬へ、冷やかに流れ始めたのである。
「房子《ふさこ》。」
陳はほとんど呻《うめ》くように、なつかしい妻の名前を呼んだ。
するとその途端《とたん》である。高い二階の室《へや》の一つには、意外にも眩《まぶ》しい電燈がともった。
「あの窓は、――あれは、――」
陳は際《きわ》どい息を呑んで、手近の松の幹を捉《とら》えながら、延び上るように二階の窓を見上げた。窓は、――二階の寝室の窓は、硝子《ガラス》戸をすっかり明け放った向うに、明るい室内を覗《のぞ》かせている。そうしてそこから流れる光が、塀の内に茂った松の梢《こずえ》を、ぼんやり暗い空に漂わせている。
しかし不思議はそればかりではない。やがてその二階の窓際には、こちらへ向いたらしい人影が一つ、朧《おぼろ》げな輪廓《りんかく》を浮き上らせた。生憎《あいにく》電燈の光が後《うしろ》にあるから、顔かたちは誰だか判然しない。が、ともかくもその姿が、女でない事だけは確かである。陳は思わず塀の常春藤《きづた》を掴《つか》んで、倒れかかる体を支えながら、苦しそうに切れ切れな声を洩らした。
「あの手紙は、――まさか、――房子だけは――」
一瞬間の後陳彩は、安々《やすやす》塀を乗り越えると、庭の松の間をくぐりくぐり、首尾《しゅび》よく二階の真下にある、客間の窓際へ忍び寄った。そこには花も葉も露に濡れた、水々しい夾竹桃《きょうちくとう》の一むらが、………
陳はまっ暗な外の廊下《ろうか》に、乾いた唇を噛みながら、一層|嫉妬《しっと》深い聞き耳を立てた。それはこの時戸の向うに、さっき彼が聞いたような、用心深い靴の音が、二三度|床《ゆか》に響《ひび》いたからであった。
足響《あしおと》はすぐに消えてしまった。が、興奮した陳の神経には、ほどなく窓をしめる音が、鼓膜《こまく》を刺すように聞えて来た。その後には、――また長い沈黙があった。
その沈黙はたちまち絞《し》め木《ぎ》のように、色を失った陳の額へ、冷たい脂汗《あぶらあせ》を絞り出した。彼は
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