全部ではない。心境は兎《と》に角《かく》金以外に多少の清閑を与へるのである。これも亦《また》僕には異存はない。僕は君の駁《ばく》した文の中にも、「清閑を得る前には先づ金を持たなければならない。或は金を超越しなければならない」とちやんと断《ことわ》つてある筈である。
 しかし中村君は不幸にも清閑を可能ならしめる心境以外に、清閑を不可能ならしめる他の原因を認めてゐる。「しかしもつと根本的なことは、社会的環境だと思ふ。電車や自動車や、飛行機の響きを聞き、新聞雑誌の中に埋《うづ》もれながら、たとへ金があつたところで、昔の人人が浸《ひた》つた「清閑」の境地なんか、とても得られるわけがない。」これは中村君のみならず、屡《しばしば》識者の口から出た、山嶽よりも古い誤謬《ごびう》である。古往今来《こわうこんらい》社会的環境などは一度も清閑を容易にしたことはない。二十世紀の中村君は自動車の音を気にしてゐる。しかし十九世紀のシヨウペンハウエルは馭者《ぎよしや》の鞭《むち》の音を気にしてゐる。更に又大昔のホメエロスなどは轣轆《れきろく》たる戦車の音か何かを気にしてゐたのに違ひない。つまり古人も彼等のゐた時代を一番騒がしいと信じてゐたのである。いや、事実はそれ所ではない。自動車だの電車だの飛行機だのの音は、――或は現代の社会的環境は寧《むし》ろ清閑を得る為の必要条件の一つである。かう云ふ社会的環境の中に人となつた君や僕はかう云ふ社会的環境の外《ほか》に安住の天地のある訣《わけ》はない。寂寞《せきばく》も清閑を破壊することは全然|喧騒《けんさう》と同じことである。もし※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]《うそ》だと思ふならば、アフリカの森林に抛《ほふ》り出された君や僕を想像して見給へ。勇敢なる君はホツテントツトの尊長《しうちやう》の王座に登るかも知れない。が、ひと月とたたないうちに不幸なる尊長|中村武羅夫《なかむらむらを》の発狂することも亦《また》明らかである。
 中村君は更に「それでは清閑の無いやうな現代の生活からは、芸術を望むことは出来ないかと云ふと、私《わたし》は必《かならず》しもさうではないと思ふのである。芸術なんか、その内容でも形式でも、どんな時代のどんな境地からでも生れるやうに、流通自在のものである。(中略)時代時代に依つてどしどし変つて行つて、一向《いつかう》差支
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