るに足る詩的天才に信頼したために胃袋の一語を忘れたことである。(この章にもやはりクラバックの爪の痕は残っていました。)
        ×
 もし理性に終始するとすれば、我々は当然我々自身の存在を否定しなければならぬ。理性を神にしたヴォルテエルの幸福に一生をおわったのはすなわち人間の河童よりも進化していないことを示すものである。

        十二

 ある割合に寒い午後です。僕は「阿呆《あほう》の言葉」を読み飽きましたから、哲学者のマッグを尋ねに出かけました。するとある寂しい町の角《かど》に蚊のようにやせた河童《かっぱ》が一匹、ぼんやり壁によりかかっていました。しかもそれは紛れもない、いつか僕の万年筆を盗んでいった河童なのです。僕はしめたと思いましたから、ちょうどそこへ通りかかった、たくましい巡査を呼びとめました。
「ちょっとあの河童を取り調べてください。あの河童はちょうど一月《ひとつき》ばかり前にわたしの万年筆を盗んだのですから。」
 巡査は右手の棒をあげ、(この国の巡査は剣《けん》の代わりに水松《いちい》の棒を持っているのです。)「おい、君」とその河童へ声をかけました。僕はあるいはその河童は逃げ出しはしないかと思っていました。が、存外落ち着き払って巡査の前へ歩み寄りました。のみならず腕を組んだまま、いかにも傲然《ごうぜん》と僕の顔や巡査の顔をじろじろ見ているのです。しかし巡査は怒《おこ》りもせず、腹の袋から手帳を出してさっそく尋問にとりかかりました。
「お前の名は?」
「グルック。」
「職業は?」
「つい二三日前までは郵便配達夫をしていました。」
「よろしい。そこでこの人の申し立てによれば、君はこの人の万年筆を盗んでいったということだがね。」
「ええ、一月ばかり前に盗みました。」
「なんのために?」
「子どもの玩具《おもちゃ》にしようと思ったのです。」
「その子どもは?」
 巡査ははじめて相手の河童へ鋭い目を注ぎました。
「一週間前に死んでしまいました。」
「死亡証明書を持っているかね?」
 やせた河童は腹の袋から一枚の紙をとり出しました。巡査はその紙へ目を通すと、急ににやにや笑いながら、相手の肩をたたきました。
「よろしい。どうも御苦労だったね。」
 僕は呆気《あっけ》にとられたまま、巡査の顔をながめていました。しかもそのうちにやせた河童は何かぶつぶつつぶやきながら、僕らを後ろにして行ってしまうのです。僕はやっと気をとり直し、こう巡査に尋ねてみました。
「どうしてあの河童をつかまえないのです?」
「あの河童は無罪ですよ。」
「しかし僕の万年筆を盗んだのは……」
「子どもの玩具にするためだったのでしょう。けれどもその子どもは死んでいるのです。もし何か御不審だったら、刑法千二百八十五条をお調べなさい。」
 巡査はこう言いすてたなり、さっさとどこかへ行ってしまいました。僕はしかたがありませんから、「刑法千二百八十五条」を口の中に繰り返し、マッグの家《うち》へ急いでゆきました。哲学者のマッグは客好きです。現にきょうも薄暗い部屋《へや》には裁判官のペップや医者のチャックや硝子《ガラス》会社の社長のゲエルなどが集まり、七色《なないろ》の色硝子のランタアンの下に煙草《たばこ》の煙を立ち昇《のぼ》らせていました。そこに裁判官のペップが来ていたのは何よりも僕には好《こう》つごうです。僕は椅子《いす》にかけるが早いか、刑法第千二百八十五条を検《しら》べる代わりにさっそくペップへ問いかけました。
「ペップ君、はなはだ失礼ですが、この国では罪人を罰しないのですか?」
 ペップは金口《きんぐち》の煙草の煙をまず悠々《ゆうゆう》と吹き上げてから、いかにもつまらなそうに返事をしました。
「罰しますとも。死刑さえ行なわれるくらいですからね。」
「しかし僕は一月《ひとつき》ばかり前に、……」
 僕は委細を話した後《のち》、例の刑法千二百八十五条のことを尋ねてみました。
「ふむ、それはこういうのです。――『いかなる犯罪を行ないたりといえども、該《がい》犯罪を行なわしめたる事情の消失したる後は該犯罪者を処罰することを得ず』つまりあなたの場合で言えば、その河童《かっぱ》はかつては親だったのですが、今はもう親ではありませんから、犯罪も自然と消滅するのです。」
「それはどうも不合理ですね。」
「常談《じょうだん》を言ってはいけません。親だった[#「だった」に傍点]河童も親である[#「である」に傍点]河童も同一に見るのこそ不合理です。そうそう、日本の法律では同一に見ることになっているのですね。それはどうも我々には滑稽《こっけい》です。ふふふふふふふふふふ。」
 ペップは巻煙草をほうり出しながら、気のない薄笑いをもらしていました。そこへ口を出したのは法律には縁の遠いチャックです。チャックはちょっと鼻目金《はなめがね》を直し、こう僕に質問しました。
「日本にも死刑はありますか?」
「ありますとも。日本では絞罪《こうざい》です。」
 僕は冷然と構えこんだペップに多少反感を感じていましたから、この機会に皮肉を浴びせてやりました。
「この国の死刑は日本よりも文明的にできているでしょうね?」
「それはもちろん文明的です。」
 ペップはやはり落ち着いていました。
「この国では絞罪などは用いません。まれには電気を用いることもあります。しかしたいていは電気も用いません。ただその犯罪の名を言って聞かせるだけです。」
「それだけで河童は死ぬのですか?」
「死にますとも。我々河童の神経作用はあなたがたのよりも微妙ですからね。」
「それは死刑ばかりではありません。殺人にもその手を使うのがあります――」
 社長のゲエルは色硝子《いろガラス》の光に顔中紫に染まりながら、人なつこい笑顔《えがお》をして見せました。
「わたしはこの間もある社会主義者に『貴様は盗人《ぬすびと》だ』と言われたために心臓|痲痺《まひ》[#「痲痺」は底本では「痳痺」]を起こしかかったものです。」
「それは案外多いようですね。わたしの知っていたある弁護士などはやはりそのために死んでしまったのですからね。」
 僕はこう口を入れた河童《かっぱ》、――哲学者のマッグをふりかえりました。マッグはやはりいつものように皮肉な微笑を浮かべたまま、だれの顔も見ずにしゃべっているのです。
「その河童はだれかに蛙《かえる》だと言われ、――もちろんあなたも御承知でしょう、この国で蛙だと言われるのは人非人《にんぴにん》という意味になることぐらいは。――己《おれ》は蛙かな? 蛙ではないかな? と毎日考えているうちにとうとう死んでしまったものです。」
「それはつまり自殺ですね。」
「もっともその河童を蛙だと言ったやつは殺すつもりで言ったのですがね。あなたがたの目から見れば、やはりそれも自殺という……」
 ちょうどマッグがこう言った時です。突然その部屋《へや》の壁の向こうに、――たしかに詩人のトックの家に鋭いピストルの音が一発、空気をはね返すように響き渡りました。

        十三

 僕らはトックの家へ駆けつけました。トックは右の手にピストルを握り、頭の皿から血を出したまま、高山植物の鉢植《はちう》えの中に仰向《あおむ》けになって倒れていました。そのまたそばには雌《めす》の河童が一匹、トックの胸に顔を埋《うず》め、大声をあげて泣いていました。僕は雌の河童を抱き起こしながら、(いったい僕はぬらぬらする河童の皮膚に手を触れることをあまり好んではいないのですが。)「どうしたのです?」と尋ねました。
「どうしたのだか、わかりません。ただ何か書いていたと思うと、いきなりピストルで頭を打ったのです。ああ、わたしはどうしましょう? qur−r−r−r−r, qur−r−r−r−r」(これは河童の泣き声です。)
「なにしろトック君はわがままだったからね。」
 硝子《ガラス》会社の社長のゲエルは悲しそうに頭を振りながら、裁判官のペップにこう言いました。しかしペップは何も言わずに金口《きんぐち》の巻煙草《まきたばこ》に火をつけていました。すると今までひざまずいて、トックの創口《きずぐち》などを調べていたチャックはいかにも医者らしい態度をしたまま、僕ら五人に宣言しました。(実はひとりと四匹《しひき》とです。)
「もう駄目《だめ》です。トック君は元来胃病でしたから、それだけでも憂鬱《ゆううつ》になりやすかったのです。」
「何か書いていたということですが。」
 哲学者のマッグは弁解するようにこう独《ひと》り語《ごと》をもらしながら、机の上の紙をとり上げました。僕らは皆|頸《くび》をのばし、(もっとも僕だけは例外です。)幅の広いマッグの肩越しに一枚の紙をのぞきこみました。
[#ここから1字下げ]
「いざ、立ちてゆかん。娑婆界《しゃばかい》を隔つる谷へ。
 岩むらはこごしく、やま水は清く、
 薬草の花はにおえる谷へ。」
[#ここで字下げ終わり]
 マッグは僕らをふり返りながら、微苦笑といっしょにこう言いました。
「これはゲエテの『ミニヨンの歌』の剽窃《ひょうせつ》ですよ。するとトック君の自殺したのは詩人としても疲れていたのですね。」
 そこへ偶然自動車を乗りつけたのはあの音楽家のクラバックです。クラバックはこういう光景を見ると、しばらく戸口にたたずんでいました。が、僕らの前へ歩み寄ると、怒鳴《どな》りつけるようにマッグに話しかけました。
「それはトックの遺言状《ゆいごんじょう》ですか?」
「いや、最後に書いていた詩です。」
「詩?」
 やはり少しも騒がないマッグは髪を逆立《さかだ》てたクラバックにトックの詩稿を渡しました。クラバックはあたりには目もやらずに熱心にその詩稿を読み出しました。しかもマッグの言葉にはほとんど返事さえしないのです。
「あなたはトック君の死をどう思いますか?」
「いざ、立ちて、……僕もまたいつ死ぬかわかりません。……娑婆界《しゃばかい》を隔つる谷へ。……」
「しかしあなたはトック君とはやはり親友のひとりだったのでしょう?」
「親友? トックはいつも孤独だったのです。……娑婆界を隔つる谷へ、……ただトックは不幸にも、……岩むらはこごしく……」
「不幸にも?」
「やま水は清く、……あなたがたは幸福です。……岩むらはこごしく。……」
 僕はいまだに泣き声を絶たない雌《めす》の河童《かっぱ》に同情しましたから、そっと肩を抱《かか》えるようにし、部屋《へや》の隅《すみ》の長椅子《ながいす》へつれていきました。そこには二歳か三歳かの河童が一匹、何も知らずに笑っているのです。僕は雌の河童の代わりに子どもの河童をあやしてやりました。するといつか僕の目にも涙のたまるのを感じました。僕が河童の国に住んでいるうちに涙というものをこぼしたのは前にもあとにもこの時だけです。
「しかしこういうわがままの河童といっしょになった家族は気の毒ですね。」
「なにしろあとのことも考えないのですから。」
 裁判官のペップは相変わらず、新しい巻煙草《まきたばこ》に火をつけながら、資本家のゲエルに返事をしていました。すると僕らを驚かせたのは音楽家のクラバックのおお声です。クラバックは詩稿を握ったまま、だれにともなしに呼びかけました。
「しめた! すばらしい葬送曲ができるぞ。」
 クラバックは細い目をかがやかせたまま、ちょっとマッグの手を握ると、いきなり戸口へ飛んでいきました。もちろんもうこの時には隣近所の河童が大勢、トックの家の戸口に集まり、珍しそうに家の中をのぞいているのです。しかしクラバックはこの河童たちを遮二無二《しゃにむに》左右へ押しのけるが早いか、ひらりと自動車へ飛び乗りました。同時にまた自動車は爆音を立ててたちまちどこかへ行ってしまいました。
「こら、こら、そうのぞいてはいかん。」
 裁判官のペップは巡査の代わりに大勢の河童《かっぱ》を押し出した後《のち》、トックの家の戸をしめてしまいました。部屋《へや》の中はそのせいか急にひっそりなったものです。僕らはこういう静
前へ 次へ
全9ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング