たのです。」
「何か書いていたということですが。」
 哲学者のマッグは弁解するようにこう独《ひと》り語《ごと》をもらしながら、机の上の紙をとり上げました。僕らは皆|頸《くび》をのばし、(もっとも僕だけは例外です。)幅の広いマッグの肩越しに一枚の紙をのぞきこみました。
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「いざ、立ちてゆかん。娑婆界《しゃばかい》を隔つる谷へ。
 岩むらはこごしく、やま水は清く、
 薬草の花はにおえる谷へ。」
[#ここで字下げ終わり]
 マッグは僕らをふり返りながら、微苦笑といっしょにこう言いました。
「これはゲエテの『ミニヨンの歌』の剽窃《ひょうせつ》ですよ。するとトック君の自殺したのは詩人としても疲れていたのですね。」
 そこへ偶然自動車を乗りつけたのはあの音楽家のクラバックです。クラバックはこういう光景を見ると、しばらく戸口にたたずんでいました。が、僕らの前へ歩み寄ると、怒鳴《どな》りつけるようにマッグに話しかけました。
「それはトックの遺言状《ゆいごんじょう》ですか?」
「いや、最後に書いていた詩です。」
「詩?」
 やはり少しも騒がないマッグは髪を逆立《さかだ》てたクラバッ
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