ぶやきながら、僕らを後ろにして行ってしまうのです。僕はやっと気をとり直し、こう巡査に尋ねてみました。
「どうしてあの河童をつかまえないのです?」
「あの河童は無罪ですよ。」
「しかし僕の万年筆を盗んだのは……」
「子どもの玩具にするためだったのでしょう。けれどもその子どもは死んでいるのです。もし何か御不審だったら、刑法千二百八十五条をお調べなさい。」
 巡査はこう言いすてたなり、さっさとどこかへ行ってしまいました。僕はしかたがありませんから、「刑法千二百八十五条」を口の中に繰り返し、マッグの家《うち》へ急いでゆきました。哲学者のマッグは客好きです。現にきょうも薄暗い部屋《へや》には裁判官のペップや医者のチャックや硝子《ガラス》会社の社長のゲエルなどが集まり、七色《なないろ》の色硝子のランタアンの下に煙草《たばこ》の煙を立ち昇《のぼ》らせていました。そこに裁判官のペップが来ていたのは何よりも僕には好《こう》つごうです。僕は椅子《いす》にかけるが早いか、刑法第千二百八十五条を検《しら》べる代わりにさっそくペップへ問いかけました。
「ペップ君、はなはだ失礼ですが、この国では罪人を罰しないので
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