ないものです。哲学者のマッグも言っているでしょう。『汝《なんじ》の悪は汝自ら言え。悪はおのずから消滅すべし。』……しかもわたしは利益のほかにも愛国心に燃え立っていたのですからね。」
ちょうどそこへはいってきたのはこの倶楽部《クラブ》の給仕です。給仕はゲエルにお時宜《じぎ》をした後《のち》、朗読でもするようにこう言いました。
「お宅のお隣に火事がございます。」
「火――火事!」
ゲエルは驚いて立ち上がりました。僕も立ち上がったのはもちろんです。が、給仕は落ち着き払って次の言葉をつけ加えました。
「しかしもう消し止めました。」
ゲエルは給仕を見送りながら、泣き笑いに近い表情をしました。僕はこういう顔を見ると、いつかこの硝子《ガラス》会社の社長を憎んでいたことに気づきました。が、ゲエルはもう今では大資本家でもなんでもないただの河童《かっぱ》になって立っているのです。僕は花瓶《かびん》の中の冬薔薇《ふゆそうび》の花を抜き、ゲエルの手へ渡しました。
「しかし火事は消えたといっても、奥さんはさぞお驚きでしょう。さあ、これを持ってお帰りなさい。」
「ありがとう。」
ゲエルは僕の手を握りました
前へ
次へ
全86ページ中40ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング