おうせい》に生きよ』という祝福を与えました。……」
 僕は長老の言葉のうちに詩人のトックを思い出しました。詩人のトックは不幸にも僕のように無神論者です。僕は河童ではありませんから、生活教を知らなかったのも無理はありません。けれども河童の国に生まれたトックはもちろん「生命の樹」を知っていたはずです。僕はこの教えに従わなかったトックの最後を憐れみましたから、長老の言葉をさえぎるようにトックのことを話し出しました。
「ああ、あの気の毒な詩人ですね。」
 長老は僕の話を聞き、深い息をもらしました。
「我々の運命を定めるものは信仰と境遇と偶然とだけです。(もっともあなたがたはそのほかに遺伝をお数えなさるでしょう。)トックさんは不幸にも信仰をお持ちにならなかったのです。」
「トックはあなたをうらやんでいたでしょう。いや、僕もうらやんでいます。ラップ君などは年も若いし、……」
「僕も嘴《くちばし》さえちゃんとしていればあるいは楽天的だったかもしれません。」
 長老は僕らにこう言われると、もう一度深い息をもらしました。しかもその目は涙ぐんだまま、じっと黒いヴェヌスを見つめているのです。
「わたしも実は、――これはわたしの秘密ですから、どうかだれにもおっしゃらずにください。――わたしも実は我々の神を信ずるわけにいかないのです。しかしいつかわたしの祈祷《きとう》は、――」
 ちょうど長老のこう言った時です。突然|部屋《へや》の戸があいたと思うと、大きい雌の河童が一匹、いきなり長老へ飛びかかりました。僕らがこの雌の河童を抱きとめようとしたのはもちろんです。が、雌の河童はとっさの間《あいだ》に床《ゆか》の上へ長老を投げ倒しました。
「この爺《おやじ》め! きょうもまたわたしの財布《さいふ》から一杯やる金《かね》を盗んでいったな!」
 十分ばかりたった後《のち》、僕らは実際逃げ出さないばかりに長老夫婦をあとに残し、大寺院の玄関を下《お》りていきました。
「あれではあの長老も『生命の樹』を信じないはずですね。」
 しばらく黙って歩いた後、ラップは僕にこう言いました。が、僕は返事をするよりも思わず大寺院を振り返りました。大寺院はどんより曇った空にやはり高い塔や円屋根《まるやね》を無数の触手のように伸ばしています。なにか沙漠《さばく》の空に見える蜃気楼《しんきろう》の無気味さを漂わせたまま。……

        一五

 それからかれこれ一週間の後、僕はふと医者のチャックに珍しい話を聞きました。というのはあのトックの家《うち》に幽霊の出るという話なのです。そのころにはもう雌《めす》の河童《かっぱ》はどこかほかへ行ってしまい、僕らの友だちの詩人の家も写真師のステュディオに変わっていました。なんでもチャックの話によれば、このステュディオでは写真をとると、トックの姿もいつの間《ま》にか必ず朦朧《もうろう》と客の後ろに映っているとかいうことです。もっともチャックは物質主義者ですから、死後の生命などを信じていません。現にその話をした時にも悪意のある微笑を浮かべながら、「やはり霊魂というものも物質的存在とみえますね」などと註釈めいたことをつけ加えていました。僕も幽霊を信じないことはチャックとあまり変わりません。けれども詩人のトックには親しみを感じていましたから、さっそく本屋の店へ駆けつけ、トックの幽霊に関する記事やトックの幽霊の写真の出ている新聞や雑誌を買ってきました。なるほどそれらの写真を見ると、どこかトックらしい河童が一匹、老若男女《ろうにゃくなんにょ》の河童の後ろにぼんやりと姿を現わしていました。しかし僕を驚かせたのはトックの幽霊の写真よりもトックの幽霊に関する記事、――ことにトックの幽霊に関する心霊学協会の報告です。僕はかなり逐語的にその報告を訳しておきましたから、下《しも》に大略を掲げることにしましょう。ただし括弧《かっこ》の中にあるのは僕自身の加えた註釈なのです。――
 詩人トック君の幽霊に関する報告。(心霊学協会雑誌第八千二百七十四号所載)
 わが心霊学協会は先般自殺したる詩人トック君の旧居にして現在は××写真師のステュディオなる□□街第二百五十一号に臨時調査会を開催せり。列席せる会員は下《しも》のごとし。(氏名を略す。)
 我ら十七名の会員は心霊協会会長ペック氏とともに九月十七日午前十時三十分、我らのもっとも信頼するメディアム、ホップ夫人を同伴し、該《がい》ステュディオの一室に参集せり。ホップ夫人は該ステュディオにはいるや、すでに心霊的空気を感じ、全身に痙攣《けいれん》を催しつつ、嘔吐《おうと》すること数回に及べり。夫人の語るところによれば、こは詩人トック君の強烈なる煙草《たばこ》を愛したる結果、その心霊的空気もまたニコティンを含有するためなりという。
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