中に仰向《あおむ》けになって倒れていました。そのまたそばには雌《めす》の河童が一匹、トックの胸に顔を埋《うず》め、大声をあげて泣いていました。僕は雌の河童を抱き起こしながら、(いったい僕はぬらぬらする河童の皮膚に手を触れることをあまり好んではいないのですが。)「どうしたのです?」と尋ねました。
「どうしたのだか、わかりません。ただ何か書いていたと思うと、いきなりピストルで頭を打ったのです。ああ、わたしはどうしましょう? qur−r−r−r−r, qur−r−r−r−r」(これは河童の泣き声です。)
「なにしろトック君はわがままだったからね。」
硝子《ガラス》会社の社長のゲエルは悲しそうに頭を振りながら、裁判官のペップにこう言いました。しかしペップは何も言わずに金口《きんぐち》の巻煙草《まきたばこ》に火をつけていました。すると今までひざまずいて、トックの創口《きずぐち》などを調べていたチャックはいかにも医者らしい態度をしたまま、僕ら五人に宣言しました。(実はひとりと四匹《しひき》とです。)
「もう駄目《だめ》です。トック君は元来胃病でしたから、それだけでも憂鬱《ゆううつ》になりやすかったのです。」
「何か書いていたということですが。」
哲学者のマッグは弁解するようにこう独《ひと》り語《ごと》をもらしながら、机の上の紙をとり上げました。僕らは皆|頸《くび》をのばし、(もっとも僕だけは例外です。)幅の広いマッグの肩越しに一枚の紙をのぞきこみました。
[#ここから1字下げ]
「いざ、立ちてゆかん。娑婆界《しゃばかい》を隔つる谷へ。
岩むらはこごしく、やま水は清く、
薬草の花はにおえる谷へ。」
[#ここで字下げ終わり]
マッグは僕らをふり返りながら、微苦笑といっしょにこう言いました。
「これはゲエテの『ミニヨンの歌』の剽窃《ひょうせつ》ですよ。するとトック君の自殺したのは詩人としても疲れていたのですね。」
そこへ偶然自動車を乗りつけたのはあの音楽家のクラバックです。クラバックはこういう光景を見ると、しばらく戸口にたたずんでいました。が、僕らの前へ歩み寄ると、怒鳴《どな》りつけるようにマッグに話しかけました。
「それはトックの遺言状《ゆいごんじょう》ですか?」
「いや、最後に書いていた詩です。」
「詩?」
やはり少しも騒がないマッグは髪を逆立《さかだ》てたクラバッ
前へ
次へ
全43ページ中29ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング