ぶやきながら、僕らを後ろにして行ってしまうのです。僕はやっと気をとり直し、こう巡査に尋ねてみました。
「どうしてあの河童をつかまえないのです?」
「あの河童は無罪ですよ。」
「しかし僕の万年筆を盗んだのは……」
「子どもの玩具にするためだったのでしょう。けれどもその子どもは死んでいるのです。もし何か御不審だったら、刑法千二百八十五条をお調べなさい。」
巡査はこう言いすてたなり、さっさとどこかへ行ってしまいました。僕はしかたがありませんから、「刑法千二百八十五条」を口の中に繰り返し、マッグの家《うち》へ急いでゆきました。哲学者のマッグは客好きです。現にきょうも薄暗い部屋《へや》には裁判官のペップや医者のチャックや硝子《ガラス》会社の社長のゲエルなどが集まり、七色《なないろ》の色硝子のランタアンの下に煙草《たばこ》の煙を立ち昇《のぼ》らせていました。そこに裁判官のペップが来ていたのは何よりも僕には好《こう》つごうです。僕は椅子《いす》にかけるが早いか、刑法第千二百八十五条を検《しら》べる代わりにさっそくペップへ問いかけました。
「ペップ君、はなはだ失礼ですが、この国では罪人を罰しないのですか?」
ペップは金口《きんぐち》の煙草の煙をまず悠々《ゆうゆう》と吹き上げてから、いかにもつまらなそうに返事をしました。
「罰しますとも。死刑さえ行なわれるくらいですからね。」
「しかし僕は一月《ひとつき》ばかり前に、……」
僕は委細を話した後《のち》、例の刑法千二百八十五条のことを尋ねてみました。
「ふむ、それはこういうのです。――『いかなる犯罪を行ないたりといえども、該《がい》犯罪を行なわしめたる事情の消失したる後は該犯罪者を処罰することを得ず』つまりあなたの場合で言えば、その河童《かっぱ》はかつては親だったのですが、今はもう親ではありませんから、犯罪も自然と消滅するのです。」
「それはどうも不合理ですね。」
「常談《じょうだん》を言ってはいけません。親だった[#「だった」に傍点]河童も親である[#「である」に傍点]河童も同一に見るのこそ不合理です。そうそう、日本の法律では同一に見ることになっているのですね。それはどうも我々には滑稽《こっけい》です。ふふふふふふふふふふ。」
ペップは巻煙草をほうり出しながら、気のない薄笑いをもらしていました。そこへ口を出したのは法律には縁の
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