ツプは何も言はずに金口の巻煙草に火をつけてゐました。すると今まで跪いて、トツクの創口《きずぐち》などを調べてゐたチヤツクは如何にも医者らしい態度をしたまま、僕等五人に宣言しました。(実は一人と四匹とです。)
「もう駄目です。トツク君は元来胃病でしたから、それだけでも憂鬱になり易かつたのです。」
「何か書いてゐたと云ふことですが。」
哲学者のマツグは弁解するやうにかう独り語を洩らしながら、机の上の紙をとり上げました。僕等は皆頸をのばし、(尤も僕だけは例外です。)幅の広いマツグの肩越しに一枚の紙を覗きこみました。
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「いざ、立ちて行かん。娑婆界を隔つる谷へ。
岩むらはこごしく、やま水は清く、
薬草の花はにほへる谷へ。」
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マツグは僕等をふり返りながら、微苦笑と一しよにかう言ひました。
「これはゲエテの『ミニヨンの歌』の剽窃《へうせつ》ですよ。するとトツク君の自殺したのは詩人としても疲れてゐたのですね。」
そこへ偶然自動車を乗りつけたのはあの音楽家のクラバツクです。クラバツクはかう云ふ光景を見ると、暫く戸口に佇んでゐました。が、僕等の前
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