徐に薄暮に沈まんとす。予は諸君と訣別すべし。さらば。諸君。さらば。わが善良なる諸君。
 ホツプ夫人は最後の言葉と共に再び急劇に覚醒したり。我等十七名の会員はこの問答の真なりしことを上天の神に誓つて保証せんとす。(尚又我等の信頼するホツプ夫人に対する報酬は嘗て夫人が女優たりし時の日当に従ひて支弁したり。)

[#7字下げ]十六[#「十六」は中見出し]

 僕はかう云ふ記事を読んだ後、だんだんこの国にゐることも憂鬱になつて来ましたから、どうか我々人間の国へ帰ることにしたいと思ひました。しかしいくら探して歩いても、僕の落ちた穴は見つかりません。そのうちにあのバツグと云ふ漁師の河童の話には、何でもこの国の街はづれに或年をとつた河童が一匹、本を読んだり、笛を吹いたり、静かに暮らしてゐると云ふことです。僕はこの河童に尋ねて見れば、或はこの国を逃げ出す途もわかりはしないかと思ひましたから、早速街はづれへ出かけて行きました。しかしそこへ行つて見ると、如何にも小さい家の中に年をとつた河童どころか、頭の皿も固まらない、やつと十二三の河童が一匹、悠々と笛を吹いてゐました。僕は勿論間違つた家へはひつたではないかと思ひました。が、念の為に名をきいて見ると、やはりバツグの教へてくれた年よりの河童に違ひないのです。
「しかしあなたは子供のやうですが……」
「お前さんはまだ知らないのかい? わたしはどう云ふ運命か、母親の腹を出た時には白髪頭をしてゐたのだよ。それからだんだん年が若くなり、今ではこんな子供になつたのだよ。けれども年を勘定すれば、生まれる前を六十としても、彼是百十五六にはなるかも知れない。」
 僕は部屋の中を見まはしました。そこには僕の気のせゐか、質素な椅子やテエブルの間に何か清らかな幸福が漂つてゐるやうに見えるのです。
「あなたはどうもほかの河童よりも仕合せに暮らしてゐるやうですね?」
「さあ、それはさうかも知れない。わたしは若い時は年よりだつたし、年をとつた時は若いものになつてゐる。従つて年よりのやうに慾にも渇かず、若いもののやうに色にも溺れない。兎に角わたしの生涯はたとひ仕合せではないにもしろ、安らかだつたのには違ひあるまい。」
「成程それでは安らかでせう。」
「いや、まだそれだけでは安らかにはならない。わたしは体も丈夫だつたし、一生食ふに困らぬ位の財産を持つてゐたのだよ。しかし一番仕合せだつたのはやはり生まれて来た時に年よりだつたことだと思つてゐる。」
 僕は暫くこの河童と自殺したトツクの話だの毎日医者に見て貰つてゐるゲエルの話だのをしてゐました。が、なぜか年をとつた河童は余り僕の話などに興味のないやうな顔をしてゐました。
「ではあなたはほかの河童のやうに格別生きてゐることに執着を持つてはゐないのですね?」
 年をとつた河童は僕の顔を見ながら、静かにかう返事をしました。
「わたしもほかの河童のやうにこの国へ生まれて来るかどうか、一応父親に尋ねられてから母親の胎内を離れたのだよ。」
「しかし僕はふとした拍子に、この国へ転げ落ちてしまつたのです。どうか僕にこの国から出て行かれる路を教へて下さい。」
「出て行かれる路は一つしかない。」
「と云ふのは?」
「それはお前さんのここへ来た路だ。」
 僕はこの答を聞いた時になぜか身の毛がよだちました。
「その路が生憎見つからないのです。」
 年をとつた河童は水々しい目にぢつと僕の顔を見つめました。それからやつと体を起し、部屋の隅へ歩み寄ると、天井からそこに下つてゐた一本の綱を引きました。すると今まで気のつかなかつた天窓が一つ開きました。その又円い天窓の外には松や檜が枝を張つた向うに大空が青あをと晴れ渡つてゐます。いや、大きい鏃《やじり》に似た槍ヶ岳の峯も聳えてゐます。僕は飛行機を見た子供のやうに実際飛び上つて喜びました。
「さあ、あすこから出て行くが好い。」
 年をとつた河童はかう言ひながら、さつきの綱を指さしました。今まで僕の綱と思つてゐたのは実は綱梯子に出来てゐたのです。
「ではあすこから出さして貰ひます。」
「唯わたしは前以て言ふがね。出て行つて後悔しないやうに。」
「大丈夫です。僕は後悔などはしません。」
 僕はかう返事をするが早いか、もう綱梯子を攀ぢ登つてゐました。年をとつた河童の頭の皿を遥か下に眺めながら。

[#7字下げ]十七[#「十七」は中見出し]

 僕は河童の国から帰つて来た後、暫くは我々人間の皮膚の匂に閉口しました。我々人間に比べれば、河童は実に清潔なものです。のみならず我々人間の頭は河童ばかり見てゐた僕には如何にも気味の悪いものに見えました。これは或はあなたにはおわかりにならないかも知れません。しかし目や口は兎も角も、この鼻と云ふものは妙に恐しい気を起させるものです。僕は勿論出来
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