自己を弁護することは他人を弁護することよりも困難である。疑ふものは弁護士を見よ。
          ×
 矜誇、愛慾、疑惑――あらゆる罪は三千年来、この三者から発してゐる。同時に又恐らくはあらゆる徳も。
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 物質的欲望を減ずることは必しも平和を齎《もたら》さない。我々は平和を得る為には精神的欲望も減じなければならぬ。(クラバツクはこの章の上にも爪の痕を残してゐました。)
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 我々は人間よりも不幸である。人間は河童ほど進化してゐない。(僕はこの章を読んだ時思はず笑つてしまひました。)
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 成すことは成し得ることであり、成し得ることは成すことである。畢竟我々の生活はかう云ふ循環論法を脱することは出来ない。――即ち不合理に終始してゐる。
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 ボオドレエルは白痴になつた後、彼の人生観をたつた一語に、――女陰の一語に表白した。しかし彼自身を語るものは必しもかう言つたことではない。寧ろ彼の天才に、――彼の生活を維持するに足る詩的天才に信頼した為に胃袋の一語を忘れたことである。(この章にもやはりクラバツクの爪の痕は残つてゐました。)
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 若し理性に終始するとすれば、我々は当然我々自身の存在を否定しなければならぬ。理性を神にしたヴオルテエルの幸福に一生を了つたのは即ち人間の河童よりも進化してゐないことを示すものである。

[#7字下げ]十二[#「十二」は中見出し]

 或割り合に寒い午後です。僕は「阿呆の言葉」も読み飽きましたから、哲学者のマツグを尋ねに出かけました。すると或寂しい町の角に蚊のやうに痩せた河童が一匹、ぼんやり壁によりかかつてゐました。しかもそれは紛れもない、いつか僕の万年筆を盗んで行つた河童なのです。僕はしめたと思ひましたから、丁度そこへ通りかかつた、逞しい巡査を呼びとめました。
「ちよつとあの河童を取り調べて下さい。あの河童は丁度一月ばかり前にわたしの万年筆を盗んだのですから。」
 巡査は右手の棒をあげ、(この国の巡査は剣の代りに水松《いちゐ》の棒を持つてゐるのです。)「おい、君」とその河童へ声をかけました。僕は或はその河童は逃げ出しはしないかと思つてゐました。が、存外落ち着き払つて巡査の前へ歩み寄りました。のみならず腕を組んだまま、如何にも傲然と僕の顔や巡査の顔をじろじろ見てゐるのです。しかし巡査は怒りもせず、腹の袋から手帳を出して早速尋問にとりかかりました。
「お前の名は?」
「グルツク。」
「職業は?」
「つひ二三日前までは郵便配達夫をしてゐました。」
「よろしい。そこでこの人の申し立てによれば、君はこの人の万年筆を盗んで行つたと云ふことだがね。」
「ええ、一月ばかり前に盗みました。」
「何の為に?」
「子供の玩具にしようと思つたのです。」
「その子供は?」
 巡査は始めて相手の河童へ鋭い目を注ぎました。
「一週間前に死んでしまひました。」
「死亡証明書を持つてゐるかね?」
 痩せた河童は腹の袋から一枚の紙をとり出しました。巡査はその紙へ目を通すと、急ににやにや笑ひながら、相手の肩を叩きました。
「よろしい。どうも御苦労だつたね。」
 僕は呆気にとられたまま、巡査の顔を眺めてゐました。しかもそのうちに痩せた河童は何かぶつぶつ呟きながら、僕等を後ろにして行つてしまふのです。僕はやつと気をとり直し、かう巡査に尋ねて見ました。
「どうしてあの河童を掴まへないのです?」
「あの河童は無罪ですよ。」
「しかし僕の万年筆を盗んだのは……」
「子供の玩具にする為だつたのでせう。けれどもその子供は死んでゐるのです。若し何か御不審だつたら、刑法千二百八十五条をお調べなさい。」
 巡査はかう言ひすてたなり、さつさとどこかへ行つてしまひました。僕は仕かたがありませんから、「刑法千二百八十五条」を口の中に繰り返し、マツグの家へ急いで行きました。哲学者のマツグは客好きです。現にけふも薄暗い部屋には裁判官のペツプや医者のチヤツクや硝子会社の社長のゲエルなどが集り、七色の色硝子のランタアンの下に煙草の煙を立ち昇らせてゐました。そこに裁判官のペツプが来てゐたのは何よりも僕には好都合です。僕は椅子にかけるが早いか、刑法第千二百八十五条を検べる代りに早速ペツプへ問ひかけました。
「ペツプ君、甚だ失礼ですが、この国では罪人を罰しないのですか?」
 ペツプは金口の煙草の煙をまづ悠々と吹き上げてから、如何にもつまらなさうに返事をしました。
「罰しますとも。死刑さへ行はれる位ですからね。」
「しかし僕は一月ばかり前に、……」
 僕は委細を話した後、例の刑法千二百八十五条のことを尋ねて見ました。
「ふむ、それはかう云ふのです。――『如何なる犯罪を行ひたり
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