へ歩み寄ると、怒鳴りつけるやうにマツグに話しかけました。
「それはトツクの遺言状ですか?」
「いや、最後に書いてゐた詩です。」
「詩?」
やはり少しも騒がないマツグは髪を逆立てたクラバツクにトツクの詩稿を渡しました。クラバツクはあたりには目もやらずに熱心にその詩稿を読み出しました。しかもマツグの言葉には殆ど返事さへしないのです。
「あなたはトツク君の死をどう思ひますか?」
「いざ、立ちて、……僕も亦いつ死ぬかわかりません。……娑婆界を隔つる谷へ。……」
「しかしあなたはトツク君とはやはり親友の一人だつたのでせう?」
「親友? トツクはいつも孤独だつたのです。……娑婆界を隔つる谷へ、……唯トツクは不幸にも、……岩むらはこごしく……」
「不幸にも?」
「やま水は清く、……あなたがたは幸福です。……岩むらはこごしく。……」
僕は未だに泣き声を絶たない雌の河童に同情しましたから、そつと肩を抱へるやうにし、部屋の隅の長椅子へつれて行きました。そこには二歳か三歳かの河童が一匹、何も知らずに笑つてゐるのです。僕は雌の河童の代りに子供の河童をあやしてやりました。するといつか僕の目にも涙のたまるのを感じました。僕が河童の国に住んでゐるうちに涙と云ふものをこぼしたのは前にも後にもこの時だけです。
「しかしかう云ふ我儘な河童と一しよになつた家族は気の毒ですね。」
「何しろあとのことも考へないのですから。」
裁判官のペツプは不相変、新しい巻煙草に火をつけながら、資本家のゲエルに返事をしてゐました。すると僕等を驚かせたのは音楽家のクラバツクのおほ声です。クラバツクは詩稿を握つたまま、誰にともなしに呼びかけました。
「しめた! すばらしい葬送曲が出来るぞ。」
クラバツクは細い目を赫やかせたまま、ちよつとマツグの手を握ると、いきなり戸口へ飛んで行きました。勿論もうこの時には隣近所の河童が大勢、トツクの家の戸口に集まり、珍らしさうに家の中を覗いてゐるのです。しかしクラバツクはこの河童たちを遮二無二左右へ押しのけるが早いか、ひらりと自動車へ飛び乗りました。同時に又自動車は爆音を立てて忽ちどこかへ行つてしまひました。
「こら、こら、さう覗いてはいかん。」
裁判官のペツプは巡査の代りに大勢の河童を押し出した後、トツクの家の戸をしめてしまひました。部屋の中はそのせゐか急にひつそりなつたものです。
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