の中から緑いろの猿が一匹首を出したやうに見えたのだよ。」
 僕は多少心配になり、兎に角あの医者のチヤツクに診察して貰ふやうに勧めました。しかしトツクは何と言つても、承知する気色さへ見せません。のみならず何か疑はしさうに僕等の顔を見比べながら、こんなことさへ言ひ出すのです。
「僕は決して無政府主義者ではないよ。それだけはきつと忘れずにゐてくれ給へ。――ではさやうなら。チヤツクなどは真平御免だ。」
 僕等はぼんやり佇んだまま、トツクの後ろ姿を見送つてゐました。僕等は――いや、「僕等は」ではありません。学生のラツプはいつの間にか往来のまん中に脚をひろげ、しつきりない自動車や人通りを股目金に覗いてゐるのです。僕はこの河童も発狂したかと思ひ、驚いてラツプを引き起しました。
「常談ぢやない。何をしてゐる?」
 しかしラツプは目をこすりながら、意外にも落ち着いて返事をしました。
「いえ、余り憂鬱ですから、逆まに世の中を眺めて見たのです。けれどもやはり同じことですね。」

[#7字下げ]十一[#「十一」は中見出し]

 これは哲学者のマツグの書いた「阿呆の言葉」の中の何章かです。――
          ×
 阿呆はいつも彼以外のものを阿呆であると信じてゐる。
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 我々の自然を愛するのは自然は我々を憎んだり嫉妬したりしない為もないことはない。
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 最も賢い生活は一時代の習慣を軽蔑しながら、しかもその又習慣を少しも破らないやうに暮らすことである。
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 我々の最も誇りたいものは我々の持つてゐないものだけである。
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 何びとも偶像を破壊することに異存を持つてゐるものはない。同時に又何びとも偶像になることに異存を持つてゐるものはない。しかし偶像の台座の上に安んじて坐つてゐられるものは最も神々に恵まれたもの、――阿呆か、悪人か、英雄かである。(クラバツクはこの章の上へ爪の痕をつけてゐました。)
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 我々の生活に必要な思想は三千年前に尽きたかも知れない。我々は唯古い薪に新らしい炎を加へるだけであらう。
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 我々の特色は我々自身の意識を超越するのを常としてゐる。
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 幸福は苦痛を伴ひ、平和は倦怠を伴ふとすれば、――?
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