ゐるのです。それは不思議でも何でもありません。しかし僕に意外だつたのは河童の体の色のことです。岩の上に僕を見てゐた河童は一面に灰色を帯びてゐました。けれども今は体中すつかり緑いろに変つてゐるのです。僕は「畜生!」とおほ声を挙げ、もう一度河童へ飛びかかりました。河童が逃げ出したのは勿論です。それから僕は三十分ばかり、熊笹を突きぬけ、岩を飛び越え、遮二無二河童を追ひつづけました。
河童も亦足の早いことは決して猿などに劣りません。僕は夢中になつて追ひかける間に何度もその姿を見失はうとしました。のみならず足を辷《すべ》らして転がつたことも度たびです。が、大きい橡《とち》の木が一本、太ぶとと枝を張つた下へ来ると、幸ひにも放牧の牛が一匹、河童の往く先へ立ち塞がりました。しかもそれは角の太い、目を血走らせた牡牛なのです。河童はこの牡牛を見ると、何か悲鳴を挙げながら、一きは高い熊笹の中へもんどりを打つやうに飛び込みました。僕は、――僕も「しめた」と思ひましたから、いきなりそのあとへ追ひすがりました。するとそこには僕の知らない穴でもあいてゐたのでせう。僕は滑かな河童の背中にやつと指先がさはつたと思ふと、忽ち深い闇の中へまつ逆さまに転げ落ちました。が、我々人間の心はかう云ふ危機一髪の際にも途方もないことを考へるものです。僕は「あつ」と思ふ拍子にあの上高地の温泉宿の側に「河童橋」と云ふ橋があるのを思ひ出しました。それから、――それから先のことは覚えてゐません。僕は唯目の前に稲妻に似たものを感じたぎり、いつの間にか正気を失つてゐました。
[#7字下げ]二[#「二」は中見出し]
そのうちにやつと気がついて見ると、僕は仰向けに倒れたまま、大勢の河童にとり囲まれてゐました。のみならず太い嘴《くちばし》の上に鼻眼鏡をかけた河童が一匹、僕の側へ跪きながら、僕の胸へ聴診器を当ててゐました。その河童は僕が目をあいたのを見ると、僕に「静かに」と云ふ手真似をし、それから誰か後ろにゐる河童へ Quax quax と声をかけました。するとどこからか河童が二匹、担架を持つて歩いて来ました。僕はこの担架にのせられたまま、大勢の河童の群がつた中を静かに何町か進んで行きました。僕の両側に並んでゐる町は少しも銀座通りと違ひありません。やはり毛生欅の並み木のかげにいろいろの店が日除けを並べ、その又並み木に挟まれた道
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