みんなあげます。この外にも、珍陀《ちんた》の酒をあげませう。それとも、波羅葦僧垤利阿利《はらいそてれある》の絵をあげますか。
牛商人は、相手があまり、熱心なのに、驚いたらしい。
――では、あたらなかつたら、どう致しませう。
伊留満は帽子をあみだに、かぶり直しながら、手を振つて、笑つた。牛商人が、聊《いささか》、意外に思つた位、鋭い、鴉《からす》のやうな声で、笑つたのである。
――あたらなかつたら、私があなたに、何かもらひませう。賭《かけ》です。あたるか、あたらないかの賭です。あたつたら、これをみんな、あなたにあげますから。
かう云ふ中に紅毛は、何時《いつ》か又、人なつこい声に、帰つてゐた。
――よろしうございます。では、私も奮発して、何でもあなたの仰有《おつしや》るものを、差上げませう。
――何でもくれますか、その牛でも。
――これでよろしければ、今でも差上げます。
牛商人は、笑ひながら、黄牛《あめうし》の額を、撫でた。彼はどこまでも、これを、人の好い伊留満の、冗談だと思つてゐるらしい。
――その代り、私が勝つたら、その花のさく草を頂きますよ。
――よろしい。よろしい。では、確に約束しましたね。
――確に、御約定《おやくぢやう》致しました。御主《おんあるじ》エス・クリストの御名にお誓ひ申しまして。
伊留満は、これを聞くと、小さな眼を輝かせて、二三度、満足さうに、鼻を鳴らした。それから、左手を腰にあてて、少し反《そ》り身になりながら、右手で紫の花にさはつて見て、
――では、あたらなかつたら――あなたの体と魂とを、貰ひますよ。
かう云つて、紅毛は、大きく右の手をまはしながら、帽子をぬいだ。もぢやもぢやした髪の毛の中には、山羊《やぎ》のやうな角《つの》が二本、はえてゐる。牛商人は、思はず顔の色を変へて、持つてゐた笠を、地に落した。日のかげつたせゐであらう、畑の花や葉が、一時に、あざやかな光を失つた。牛さへ、何におびえたのか、角を低くしながら、地鳴りのやうな声で、唸つてゐる。……
――私にした約束でも、約束は、約束ですよ。私が名を云へないものを指して、あなたは、誓つたでせう。忘れてはいけません。期限は、三日ですから。では、さやうなら。
人を莫迦《ばか》にしたやうな、慇懃《いんぎん》な調子で、かう云ひながら、悪魔は、わざと、牛商人に丁寧なおじぎをした。
* * *
牛商人は、うつかり、悪魔の手にのつたのを、後悔した。このままで行けば、結局、あの「ぢやぼ」につかまつて、体も魂も、「亡《ほろ》ぶることなき猛火《みやうくわ》」に、焼かれなければ、ならない。それでは、今までの宗旨をすてて、波宇寸低茂《はうすちも》をうけた甲斐が、なくなつてしまふ。
が、御主《おんあるじ》耶蘇基督《エス・クリスト》の名で、誓つた以上、一度した約束は、破る事が出来ない。勿論、フランシス上人でも、ゐたのなら、またどうにかなる所だが、生憎《あいにく》、それも今は留守である。そこで、彼は、三日の間、夜の眼もねずに、悪魔の巧みの裏をかく手だてを考へた。それには、どうしても、あの植物の名を、知るより外に、仕方がない。しかし、フランシス上人でさへ、知らない名を、どこに知つてゐるものが、ゐるであらう。……
牛商人は、とうとう、約束の期限の切れる晩に、又あの黄牛《あめうし》をひつぱつて、そつと、伊留満の住んでゐる家の側へ、忍んで行つた。家は畑とならんで、往来に向つてゐる。行つて見ると、もう伊留満も寝しづまつたと見えて、窓からもる灯さへない。丁度、月はあるが、ぼんやりと曇つた夜で、ひつそりした畑のそこここには、あの紫の花が、心ぼそくうす暗い中に、ほのめいてゐる。元来、牛商人は、覚束《おぼつか》ないながら、一策を思ひついて、やつとここまで、忍んで来たのであるが、このしんとした景色を見ると、何となく恐しくなつて、いつそ、このまま帰つてしまはうかと云ふ気にもなつた。殊に、あの戸の後では、山羊のやうな角のある先生が、因辺留濃《いんへるの》の夢でも見てゐるのだと思ふと、折角、はりつめた勇気も、意気地なく、くじけてしまふ。が、体と魂とを、「ぢやぼ」の手に、渡す事を思へば、勿論、弱い音《ね》なぞを吐いてゐるべき場合ではない。
そこで、牛商人は、毘留善麻利耶《びるぜんまりや》の加護を願ひながら、思ひ切つて、予《あらかじめ》、もくろんで置いた計画を、実行した。計画と云ふのは、別でもない。――ひいて来た黄牛の綱《はづな》を解いて、尻をつよく打ちながら、例の畑へ勢よく追ひこんでやつたのである。
牛は、打たれた尻の痛さに、跳ね上りながら、柵を破つて、畑をふみ荒らした。角を家の板目《はめ》につきかけた事も、一度や二度ではない。
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