下に落ちた煙管を手にとった。見ると剣梅鉢《けんうめばち》の紋ぢらしの数寄《すき》を凝《こ》らした、――真鍮の煙管である。彼は忌々《いまいま》しそうに、それを、また、畳の上へ抛り出すと、白足袋《しろたび》の足を上げて、この上を大仰《おおぎょう》に踏みつける真似をした。……

        八

 それ以来、坊主が斉広《なりひろ》の煙管《きせる》をねだる事は、ぱったり跡を絶ってしまった。何故と云えば、斉広の持っている煙管は真鍮だと云う事が、宗俊と了哲とによって、一同に証明されたからである。
 そこで、一時、真鍮の煙管を金と偽《いつわ》って、斉広を欺《あざむ》いた三人の忠臣は、評議の末再び、住吉屋七兵衛に命じて、金無垢の煙管を調製させた。前に河内山にとられたのと寸分もちがわない、剣梅鉢の紋ぢらしの煙管である。――斉広はこの煙管を持って内心、坊主共にねだられる事を予期しながら、揚々として登城した。
 すると、誰一人、拝領を願いに出るものがない。前に同じ金無垢の煙管を二本までねだった河内山さえ、じろりと一瞥を与えたなり、小腰をかがめて行ってしまった。同席の大名は、勿論拝見したいとも何とも云わずに、黙っている。斉広には、それが不思議であった。
 いや、不思議だったばかりではない。しまいには、それが何となく不安になった。そこで彼はまた河内山の来かかったのを見た時に、今度はこっちから声をかけた。
「宗俊、煙管をとらそうか。」
「いえ、難有《ありがと》うございますが、手前はもう、以前に頂いて居りまする。」
 宗俊は、斉広が飜弄《ほんろう》するとでも思ったのであろう。丁寧な語の中《うち》に、鋭い口気《こうき》を籠めてこう云った。
 斉広はこれを聞くと、不快そうに、顔をくもらせた。長崎煙草の味も今では、口にあわない。急に今まで感じていた、百万石の勢力が、この金無垢の煙管の先から出る煙の如く、多愛《たわい》なく消えてゆくような気がしたからである。……
 古老《ころう》の伝える所によると、前田家では斉広以後、斉泰《なりやす》も、慶寧《よしやす》も、煙管は皆真鍮のものを用いたそうである、事によると、これは、金無垢の煙管に懲《こ》りた斉広が、子孫に遺誡《いかい》でも垂れた結果かも知れない。
[#地から1字上げ](大正五年十月)



底本:「芥川龍之介全集1」ちくま文庫、筑摩書房
   198
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