くめたまま、引きずるようにして、つれて行きます。泣こうにも、喚《わめ》こうにも、まるで人通りのない時分なのだから、仕方がございませぬ。」
「ははあ、それから。」
「それから、とうとう八坂寺《やさかでら》の塔の中へ、つれこまれて、その晩はそこですごしたそうでございます。――いや、その辺《へん》の事なら、何も年よりの手前などが、わざわざ申し上げるまでもございますまい。」
 翁《おきな》は、また眦《めじり》に皺《しわ》をよせて、笑った。往来の影は、いよいよ長くなったらしい。吹くともなく渡る風のせいであろう、そこここに散っている桜の花も、いつの間にかこっちへ吹きよせられて、今では、雨落ちの石の間に、点々と白い色をこぼしている。
「冗談云っちゃいけない。」
 青侍は、思い出したように、頤《あご》のひげを抜き抜き、こう云った。
「それで、もうおしまいかい。」
「それだけなら、何もわざわざお話し申すがものはございませぬ。」翁《おきな》は、やはり壺《つぼ》をいじりながら、「夜があけると、その男が、こうなるのも大方|宿世《すくせ》の縁だろうから、とてもの事に夫婦《みょうと》になってくれと申したそうでございます。」
「成程。」
「夢の御告げでもないならともかく、娘は、観音様のお思召《おぼしめ》し通りになるのだと思ったものでございますから、とうとう首《かぶり》を竪《たて》にふりました。さて形《かた》ばかりの盃事《さかずきごと》をすませると、まず、当座の用にと云って、塔の奥から出して来てくれたのが綾《あや》を十|疋《ぴき》に絹を十疋でございます。――この真似《まね》ばかりは、いくら貴方《あなた》にもちとむずかしいかも存じませんな。」
 青侍は、にやにや笑うばかりで、返事をしない。鶯も、もう啼かなくなった。
「やがて、男は、日の暮《くれ》に帰ると云って、娘一人を留守居《るすい》に、慌《あわただ》しくどこかへ出て参りました。その後《あと》の淋しさは、また一倍でございます。いくら利発者でも、こうなると、さすがに心細くなるのでございましょう。そこで、心晴らしに、何気《なにげ》なく塔の奥へ行って見ると、どうでございましょう。綾や絹は愚《おろか》な事、珠玉とか砂金《さきん》とか云う金目《かねめ》の物が、皮匣《かわご》に幾つともなく、並べてあると云うじゃございませぬか。これにはああ云う気丈な娘でも、思わ
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