な。」
「惜しい事に、昔さね。」
 青侍は、色のさめた藍の水干《すいかん》の袖口を、ちょいとひっぱりながら、こんな事を云う。翁は、笑声を鼻から抜いて、またゆっくり話しつづけた。後《うしろ》の竹籔では、頻《しきり》に鶯《うぐいす》が啼いている。
「それが、三七日《さんしちにち》の間、お籠りをして、今日が満願と云う夜《よ》に、ふと夢を見ました。何でも、同じ御堂《おどう》に詣《まい》っていた連中の中に、背むしの坊主《ぼうず》が一人いて、そいつが何か陀羅尼《だらに》のようなものを、くどくど誦《ず》していたそうでございます。大方それが、気になったせいでございましょう。うとうと眠気がさして来ても、その声ばかりは、どうしても耳をはなれませぬ。とんと、縁の下で蚯蚓《みみず》でも鳴いているような心もちで――すると、その声が、いつの間にやら人間の語《ことば》になって、『ここから帰る路で、そなたに云いよる男がある。その男の云う事を聞くがよい。』と、こう聞えると申すのでございますな。
「はっと思って、眼がさめると、坊主はやっぱり陀羅尼三昧《だらにざんまい》でございます。が、何と云っているのだか、いくら耳を澄ましても、わかりませぬ。その時、何気なく、ひょいと向うを見ると、常夜燈《じょうやとう》のぼんやりした明りで、観音様の御顔が見えました。日頃|拝《おが》みなれた、端厳微妙《たんごんみみょう》の御顔でございますが、それを見ると、不思議にもまた耳もとで、『その男の云う事を聞くがよい。』と、誰だか云うような気がしたそうでございます。そこで、娘はそれを観音様の御告《おつげ》だと、一図《いちず》に思いこんでしまいましたげな。」
「はてね。」
「さて、夜がふけてから、御寺を出て、だらだら下りの坂路を、五条へくだろうとしますと、案の定《じょう》後《うしろ》から、男が一人抱きつきました。丁度、春さきの暖い晩でございましたが、生憎《あいにく》の暗で、相手の男の顔も見えなければ、着ている物などは、猶《なお》の事わかりませぬ。ただ、ふり離そうとする拍子に、手が向うの口髭《くちひげ》にさわりました。いやはや、とんだ時が、満願《まんがん》の夜に当ったものでございます。
「その上、相手は、名を訊《き》かれても、名を申しませぬ。所を訊かれても、所を申しませぬ。ただ、云う事を聞けと云うばかりで、坂下の路を北へ北へ、抱きす
前へ 次へ
全9ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング