蠅でも逐ふやうに動かして、平に、辞退の意を示した。
「いや、もう、十分でござる。……失礼ながら、十分でござる。」
もし、此時、利仁が、突然、向うの家の軒を指して、「あれを御覧《ごらう》じろ」と云はなかつたなら、有仁は猶《なほ》、五位に、芋粥をすすめて、止まなかつたかも知れない。が、幸ひにして、利仁の声は、一同の注意を、その軒の方へ持つて行つた。檜皮葺《ひはだぶき》の軒には、丁度、朝日がさしてゐる。さうして、そのまばゆい光に、光沢《つや》のいい毛皮を洗はせながら、一疋の獣が、おとなしく、坐つてゐる。見るとそれは一昨日《をととひ》、利仁が枯野の路で手捕りにした、あの阪本の野狐であつた。
「狐も、芋粥が欲しさに、見参したさうな。男ども、しやつにも、物を食はせてつかはせ。」
利仁の命令は、言下《ごんか》に行はれた。軒からとび下りた狐は、直に広庭で芋粥の馳走に、与《あづか》つたのである。
五位は、芋粥を飲んでゐる狐を眺めながら、此処へ来ない前の彼自身を、なつかしく、心の中でふり返つた。それは、多くの侍たちに愚弄されてゐる彼である。京童《きやうわらべ》にさへ「何ぢや。この鼻赤めが」と、罵られてゐる彼である。色のさめた水干に、指貫《さしぬき》をつけて、飼主のない尨犬《むくいぬ》のやうに、朱雀大路をうろついて歩く、憐む可き、孤独な彼である。しかし、同時に又、芋粥に飽きたいと云ふ慾望を、唯一人大事に守つてゐた、幸福な彼である。――彼は、この上芋粥を飲まずにすむと云ふ安心と共に、満面の汗が次第に、鼻の先から、乾いてゆくのを感じた。晴れてはゐても、敦賀の朝は、身にしみるやうに、風が寒い。五位は慌てて、鼻をおさへると同時に銀《しろがね》の提に向つて大きな嚔《くさめ》をした。
[#地から2字上げ](大正五年八月)
底本:「現代日本文学大系43芥川龍之介集」筑摩書房
1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:吉田亜津美
1999年5月29日公開
2004年2月17日修正
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