り、波のやうに動いた。中でも、最《もつとも》、大きな声で、機嫌よく、笑つたのは、利仁自身である。
「では、その中に、御誘ひ申さう。」さう云ひながら、彼は、ちよいと顔をしかめた。こみ上げて来る笑と今飲んだ酒とが、喉で一つになつたからである。「……しかと、よろしいな。」
「忝うござる。」
 五位は赤くなつて、吃《ども》りながら、又、前の答を繰返した。一同が今度も、笑つたのは、云ふまでもない。それが云はせたさに、わざわざ念を押した当の利仁に至つては、前よりも一層|可笑《をか》しさうに広い肩をゆすつて、哄笑《こうせう》した。この朔北《さくほく》の野人は、生活の方法を二つしか心得てゐない。一つは酒を飲む事で、他の一つは笑ふ事である。
 しかし幸《さいはひ》に談話の中心は、程なく、この二人を離れてしまつた。これは事によると、外の連中が、たとひ嘲弄にしろ、一同の注意をこの赤鼻の五位に集中させるのが、不快だつたからかも知れない。兎に角、談柄《だんぺい》はそれからそれへと移つて、酒も肴《さかな》も残少《のこりすくな》になつた時分には、某《なにがし》と云ふ侍|学生《がくしやう》が、行縢《むかばき》の片皮へ、両足を入れて馬に乗らうとした話が、一座の興味を集めてゐた。が、五位だけは、まるで外の話が聞えないらしい。恐らく芋粥の二字が、彼のすべての思量を支配してゐるからであらう。前に雉子《きぎす》の炙《や》いたのがあつても、箸をつけない。黒酒の杯があつても、口を触れない。彼は、唯、両手を膝の上に置いて、見合ひをする娘のやうに霜に犯されかかつた鬢《びん》の辺まで、初心《うぶ》らしく上気しながら、何時までも空になつた黒塗の椀を見つめて、多愛もなく、微笑してゐるのである。……

       ―――――――――――――――――

 それから、四五日たつた日の午前、加茂川の河原に沿つて、粟田口《あはたぐち》へ通ふ街道を、静に馬を進めてゆく二人の男があつた。一人は濃い縹《はなだ》の狩衣《かりぎぬ》に同じ色の袴をして、打出《うちで》の太刀を佩《は》いた「鬚黒く鬢《びん》ぐきよき」男である。もう一人は、みすぼらしい青鈍《あをにび》の水干に、薄綿の衣《きぬ》を二つばかり重ねて着た、四十恰好の侍で、これは、帯のむすび方のだらしのない容子《ようす》と云ひ、赤鼻でしかも穴のあたりが、洟《はな》にぬれてゐる容子と云ひ
前へ 次へ
全17ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング