守居役を勤めてゐた。しかし見えない鞭の影は絶えず彼女を脅《おび》やかしてゐた。或時は風呂を焚《た》かなかつた為に、或時は籾《もみ》を干し忘れた為に、或時は牛の放れた為に、お住はいつも気の強いお民に当てこすりや小言を云はれ勝ちだつた。が、彼女は言葉も返さず、ぢつと苦しみに堪へつづけた。それは一つには忍従に慣れた精神を持つてゐたからだつた。又二つには孫の広次が母よりも寧《むし》ろ祖母の彼女に余計なついてゐたからだつた。
お住は実際はた目には殆ど以前に変らなかつた。もし少しでも変つたとすれば、それは唯以前のやうに嫁のことを褒めないばかりだつた。けれどもかう云ふ些細《ささい》の変化は格別人目を引かなかつた。少くとも隣のばあさんなどにはいつも「後生《ごしやう》よし」のお住だつた。
或夏の日の照りつけた真昼、お住は納屋《なや》の前を覆つた葡萄棚の葉の陰に隣のばあさんと話してゐた。あたりは牛部屋の蠅の声の外に何の物音も聞えなかつた。隣のばあさんは話をしながら、短い巻煙草を吸つたりした。それは倅の吸ひ殻を丹念に集めて来たものだつた。
「お民さんはえ? ふうん、干し草刈りにの? 若えのにまあ、何でもするのう。」
「なあん、女にや外へ出るよか、内の仕事が一番|好《い》いだよう。」
「いいや、畠仕事の好きなのは何よりだよう。わしの嫁なんか祝言《しうげん》から、はえ、これもう七年が間、畠へはおろか草むしりせえ、唯の一日も出たことはなえわね。子供の物の洗濯だあの、自分の物の仕直しだあのつて、毎日|永《なが》の日を暮らしてらあね。」
「そりやその方が好いだよう。子供のなりも見好くしたり、自分も小綺麗《こぎれい》になつたりするはやつぱし浮世の飾りだよう。」
「でもさあ、今の若え者は一体に野良仕事が嫌ひだよう。――おや、何ずら、今の音は?」
「今の音はえ? ありやお前さん、牛の屁だわね。」
「牛の屁かえ? ふんとうにまあ。――尤も炎天に甲羅《かふら》を干し干し、粟《あは》の草取りをするのなんか、若え時にや辛いからね。」
二人の老婆はかう云ふ風に大抵平和に話し合ふのだつた。
―――――――――――――――――
仁太郎の死後八年余り、お民は女の手一つに一家の暮らしを支へつづけた。同時に又いつかお民の名は一村の外へも弘《ひろ》がり出した。お民はもう「稼ぎ病」に夜も日も明けない若後家ではなかつた。況《いはん》や村の若衆などの「若い小母《をば》さん」ではなほ更なかつた。その代りに嫁の手本だつた。今の世の貞女の鑑《かがみ》だつた。「沢向うのお民さんを見ろ。」――さう云ふ言葉は小言と一しよに誰の口からも出る位だつた。お住は彼女の苦しみを隣の婆さんにさへ訴へなかつた。訴へたいとも亦思はなかつた。しかし彼女の心の底に、はつきり意識しなかつたにしろ、何処《どこ》か天道を当《あて》にしてゐた。その頼みもとうとう水の泡になつた。今はもう孫の広次より外に頼みになるものは一つもなかつた。お住は十二三になつた孫へ必死の愛を傾けかけた。けれどもこの最後の頼みも途絶《とだ》えさうになることは度たびだつた。
或秋晴のつづいた午後、本包みを抱へた孫の広次は、あたふた学校から帰つて来た。お住は丁度納屋の前に器用に庖丁を動かしながら、蜂屋柿を吊し柿に拵《こしら》へてゐた。広次は粟の籾《もみ》を干した筵《むしろ》を身軽に一枚飛び越えたと思ふと、ちやんと両足を揃へたまま、ちよつと祖母に挙手の礼をした。それから何の次穂《つぎほ》もなしに、かう真面目に尋ねかけた。
「ねえ、おばあさん。おらのお母さんはうんと偉い人かい?」
「なぜや?」
お住は庖丁の手を休めるなり、孫の顔を見つめずにはゐられなかつた。
「だつて先生がの、修身の時間にさう云つたぜ。広次のお母さんはこの近在に二人とない偉い人だつて。」
「先生がの?」
「うん、先生が。※[#「言+虚」、第4水準2−88−74]《うそ》だのう?」
お住はまづ狼狽《らうばい》した。孫さへ学校の先生などにそんな大※[#「言+虚」、第4水準2−88−74]を教へられてゐる、――実際お住にはこの位意外な出来事はないのだつた。が、一瞬の狼狽の後、発作的の怒《いかり》に襲はれたお住は別人のやうにお民を罵《ののし》り出した。
「おお、※[#「言+虚」、第4水準2−88−74]だとも、※[#「言+虚」、第4水準2−88−74]の皮だわ。お前のお母さんと云ふ人はな、外でばつか働くせえに、人前は偉く好いけんどな、心はうんと悪《わる》な人だわ。おばあさんばつか追ひ廻してな、気ばつか無暗《むやみ》と強くつてな、……」
広次は唯驚いたやうに、色を変へた祖母を眺めてゐた。そのうちにお住は反動の来たのか、忽《たちま》ち又涙をこぼしはじめた。
「だからな、このおばあさ
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