この世の中に悪だの悲しみがあるのだらうと人々はよく言ふが、神様も私の小説と同じやうに、この世界を拵《こしら》へて行《ゆ》くうちに、世界それ自身が勝手に発展して思ふ通りに行《ゆ》かなかつたかも知れない。
 それは冗談《じようだん》であるけれども、さういふ風に人物なり事件なりが予定とちがつて発展をする場合、ちがつた為《た》めに作品がよくなるか、わるくなるかは一概《いちがい》に言へないであらうと思ふ。併《しか》し、ちがふにしても、凡《およ》そちがふ程度があるもので、馬を書かうと思つたのが馬蝿《うまばへ》になつたといふことはない。まあ牛になるとか羊になるとかいふ位である。併し、もう少し大筋《おほすぢ》を離れたところになると、書いてゐるうちに色々なことを思ひつくので、随分《ずゐぶん》ちがふことがある。例へば「奉教人《ほうけうにん》の死」といふ小説は、昔のキリスト教徒たる女が男になつてゐて、色々の苦しい目に逢ふ。その苦しみを堪へしのんだ後《のち》に死んだが、死んで見たらば始めて女であつたことがわかつたといふ筋である。その小説の仕舞《しまひ》のところに、火事のことがある。その火事のところは初めちつと
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