《ゑが》いたものである。それを書く時は「花屋日記《はなやにつき》」といふ芭蕉の臨終を書いた本や、支考《しかう》だとか其角だとかいふ連中の書いた臨終記のやうなものを参考とし材料として、芭蕉が死ぬ半月ほど前《まへ》から死ぬところまでを書いてみる考であつた。勿論、それを書くについては、先生の死に会ふ弟子《でし》の心持といつたやうなものを私自身もその当時痛切に感じてゐた。その心持を私は芭蕉の弟子に借りて書かうとした。ところが、さういふ風にして一二枚書いてゐるうちに、沼波瓊音《ぬなみけいおん》氏が丁度《ちやうど》それと同じやうな小説(?)を書いてゐるのを見ると、今迄《いままで》の計画で書く気がすつかりなくなつてしまつた。
そこで今度は、芭蕉の死骸を船に乗せて伏見《ふしみ》へ上ぼつて行《ゆ》くその途中にシインを取つて、そして、弟子達の心持を書かうとした。それが当時(大正七年の九月)の「新小説」に出る筈になつてゐたのであつたが、初めの計画が変つたので、締切が近づいてもどうしても書けなかつた。原稿紙ばかり無駄《むだ》にしてゐる間《あひだ》に締切の期日がつい来てしまつて甚だ心細い気がした。その時の「新
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