偉大さなどを求めてゐない。欲しいのは唯平和だけだ。ワグネルの手紙を読んで見ろ。愛する妻と二三人の子供と暮らしに困らない金さへあれば、偉大な芸術などは作らずとも満足すると書いてゐる。ワグネルでさへこの通りだ。あの我《が》の強いワグネルでさへ。
或声 お前は兎に角苦しんでゐる。お前は良心のない人間ではない。
僕 僕は良心などを持つてゐない。持つてゐるのは神経ばかりだ。
或声 お前の家庭生活は不幸だつた。
僕 しかし僕の細君はいつも僕に忠実だつた。
或声 お前の悲劇は他の人々よりも逞《たくま》しい理智を持つてゐることだ。
僕 ※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]をつけ。僕の喜劇は他の人々よりも乏しい世間智を持つてゐることだ。
或声 しかしお前は正直だ。お前は何ごとも露《あらは》れないうちにお前の愛してゐる女の夫へ一切の事情を打ち明けてしまつた。
僕 それも※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]だ。僕は打ち明けずにはゐられない気もちになるまでは打ち明けなかつた。
或声 お前は詩人だ。芸術家だ。お前には何ごとも許されてゐる。
僕 僕は詩人だ。芸術家だ。けれども又社会の一
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