偉大さなどを求めてゐない。欲しいのは唯平和だけだ。ワグネルの手紙を読んで見ろ。愛する妻と二三人の子供と暮らしに困らない金さへあれば、偉大な芸術などは作らずとも満足すると書いてゐる。ワグネルでさへこの通りだ。あの我《が》の強いワグネルでさへ。
或声 お前は兎に角苦しんでゐる。お前は良心のない人間ではない。
僕 僕は良心などを持つてゐない。持つてゐるのは神経ばかりだ。
或声 お前の家庭生活は不幸だつた。
僕 しかし僕の細君はいつも僕に忠実だつた。
或声 お前の悲劇は他の人々よりも逞《たくま》しい理智を持つてゐることだ。
僕 ※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]をつけ。僕の喜劇は他の人々よりも乏しい世間智を持つてゐることだ。
或声 しかしお前は正直だ。お前は何ごとも露《あらは》れないうちにお前の愛してゐる女の夫へ一切の事情を打ち明けてしまつた。
僕 それも※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]だ。僕は打ち明けずにはゐられない気もちになるまでは打ち明けなかつた。
或声 お前は詩人だ。芸術家だ。お前には何ごとも許されてゐる。
僕 僕は詩人だ。芸術家だ。けれども又社会の一分子だ。僕の十字架を負ふのは不思議ではない。それでもまだ軽過ぎるだらう。
或声 お前はお前のエゴを忘れてゐる。お前の個性を尊重し、俗悪な民衆を軽蔑しろ。
僕 僕はお前に言はれずとも僕の個性を尊重してゐる。しかし民衆を軽蔑しない。僕はいつかかう言つた。――「玉は砕けても、瓦は砕けない。」シエクスピイアや、ゲエテや近松門左衛門はいつか一度は滅びるであらう。しかれ彼等を生んだ胎《たい》は、――大いなる民衆は滅びない。あらゆる芸術は形を変へても、必ずそのうちから生まれるであらう。
或声 お前の書いたものは独創的だ。
僕 いや、決して独創的ではない。第一誰が独創的だつたのだ? 古今の天才の書いたものでもプロトタイプは至る所にある。就中《なかんづく》僕は度たび盗んだ。
或声 しかしお前は教へてもゐる。
僕 僕の教へたのは出来ないことだけだ。僕に出来ることだつたとすれば、教へない前にしてしまつたであらう。
或声 お前は超人だと確信しろ。
僕 いや、僕は超人ではない。僕等[#「僕等」に傍点]は皆超人ではない。超人は唯ツアラトストラだけだ。しかもそのツアラトストラのどう云ふ死を迎へたかはニイチエ自身も知
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