はいつまでも太陽は盥《たらひ》よりも小さいと思つてゐる。
或声 お前の傲慢《がうまん》はお前を殺すぞ。
僕 僕は時々かう思つてゐる。――或は僕は畳の上では往生しない人間かも知れない。
或声 お前は死を恐れないと見えるな? な?
僕 僕は死ぬことを怖れてゐる。が、死ぬことは困難ではない。僕は二三度|頸《くび》をくくつたものだ。しかし二十秒ばかり苦しんだ後は或快感さへ感じて来る。僕は死よりも不快なことに会へば、いつでも死ぬのにためらはないつもりだ。
或声 ではなぜお前は死なないのだ? お前は誰の目から見ても、法律上の罪人ではないか?
僕 僕はそれも承知してゐる。ヴエルレエンのやうに、ワグナアのやうに、或は又大いなるストリントベリイのやうに。
或声 しかしお前は贖《あがな》はない。
僕 いや、僕は贖つてゐる。苦しみにまさる贖ひはない。
或声 お前は仕かたのない悪人だ。
僕 僕は寧《むし》ろ善男子《ぜんなんし》だ。若《も》し悪人だつたとすれば、僕のやうに苦しみはしない。のみならず必ず恋愛を利用し、女から金を絞るだらう。
或声 ではお前は阿呆かも知れない。
僕 さうだ。僕は阿呆かも知れない。あの「痴人の懺悔」などと云ふ本は僕に近い阿呆の書いたものだ。
或声 その上お前は世間見ずだ。
僕 世間知りを最上とすれば、実業家は何よりも高等だらう。
或声 お前は恋愛を軽蔑してゐた。しかし今になつて見れば、畢竟《ひつきやう》恋愛至上主義者だつた。
僕 いや、僕は今日でも断じて恋愛至上主義者ではない。僕は詩人だ。芸術家だ。
或声 しかしお前は恋愛の為に父母妻子を抛《なげう》つたではないか?
僕 ※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]をつけ。僕は唯僕自身の為に父母妻子を抛つたのだ。
或声 ではお前はエゴイストだ。
僕 僕は生憎《あいにく》エゴイストではない。しかしエゴイストになりたいのだ。
或声 お前は不幸にも近代のエゴ崇拝にかぶれてゐる。
僕 それでこそ僕は近代人だ。
或声 近代人は古人に若《し》かない。
僕 古人も亦一度は近代人だつたのだ。
或声 お前は妻子を憐まないのか?
僕 誰か憐まずにゐられたものがあるか? ゴオギヤアンの手紙を読んで見ろ。
或声 お前はお前のしたことをどこまでも是認するつもりだな。
僕 どこまでも是認してゐるとすれば、何もお前と問答などはしない。
或声
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