仕かたはありません。達雄は場末《ばすえ》のカフェのテエブルに妙子の手紙の封を切るのです。窓の外の空は雨になっている。達雄は放心したようにじっと手紙を見つめている。何だかその行《ぎょう》の間《あいだ》に妙子の西洋間《せいようま》が見えるような気がする。ピアノの蓋《ふた》に電燈の映った「わたしたちの巣」が見えるような気がする。……
主筆 ちょっともの足りない気もしますが、とにかく近来の傑作ですよ。ぜひそれを書いて下さい。
保吉 実はもう少しあるのですが。
主筆 おや、まだおしまいじゃないのですか?
保吉 ええ、そのうちに達雄は笑い出すのです。と思うとまた忌《いま》いましそうに「畜生《ちくしょう》」などと怒鳴《どな》り出すのです。
主筆 ははあ、発狂したのですね。
保吉 何、莫迦莫迦《ばかばか》しさに業《ごう》を煮《に》やしたのです。それは業を煮やすはずでしょう。元来達雄は妙子などを少しも愛したことはないのですから。……
主筆 しかしそれじゃ。……
保吉 達雄はただ妙子の家《うち》へピアノを弾きたさに行ったのですよ。云わばピアノを愛しただけなのですよ。何しろ貧しい達雄にはピアノを買う金などはないはずですからね。
主筆 ですがね、堀川さん。
保吉 しかし活動写真館のピアノでも弾いていられた頃はまだしも達雄には幸福だったのです。達雄はこの間の震災以来、巡査になっているのですよ。護憲運動《ごけんうんどう》のあった時などは善良なる東京市民のために袋叩《ふくろだた》きにされているのですよ。ただ山の手の巡回中、稀《まれ》にピアノの音《ね》でもすると、その家の外に佇《たたず》んだまま、はかない幸福を夢みているのですよ。
主筆 それじゃ折角《せっかく》の小説は……
保吉 まあ、お聞きなさい。妙子はその間も漢口《ハンカオ》の住いに不相変《あいかわらず》達雄を思っているのです。いや漢口《ハンカオ》ばかりじゃありません。外交官の夫の転任する度に、上海《シャンハイ》だの北京《ペキン》だの天津《テンシン》だのへ一時の住いを移しながら、不相変《あいかわらず》達雄を思っているのです。勿論もう震災の頃には大勢《おおぜい》の子もちになっているのですよ。ええと、――年児《としご》に双児《ふたご》を生んだものですから、四人の子もちになっているのですよ。おまけにまた夫はいつのまにか大酒飲
前へ
次へ
全7ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング