心するのです。が、ちょうど妊娠《にんしん》しているために、それを断行する勇気がありません。そこで達雄に愛されていることをすっかり夫に打ち明けるのです。もっとも夫を苦しめないように、彼女も達雄を愛していることだけは告白せずにしまうのですが。
主筆 それから決闘にでもなるのですか?
保吉 いや、ただ夫は達雄の来た時に冷かに訪問を謝絶《しゃぜつ》するのです。達雄は黙然《もくねん》と唇《くちびる》を噛んだまま、ピアノばかり見つめている。妙子は戸の外に佇《たたず》んだなりじっと忍び泣きをこらえている。――その後《のち》二月《ふたつき》とたたないうちに、突然官命を受けた夫は支那《しな》の漢口《ハンカオ》の領事館へ赴任《ふにん》することになるのです。
主筆 妙子も一しょに行くのですか?
保吉 勿論一しょに行くのです。しかし妙子は立つ前に達雄へ手紙をやるのです。「あなたの心には同情する。が、わたしにはどうすることも出来ない。お互に運命だとあきらめましょう。」――大体そう云う意味ですがね。それ以来妙子は今日までずっと達雄に会わないのです。
主筆 じゃ小説はそれぎりですね。
保吉 いや、もう少し残っているのです。妙子は漢口《ハンカオ》へ行った後《のち》も、時々達雄を思い出すのですね。のみならずしまいには夫よりも実は達雄を愛していたと考えるようになるのですね。好《い》いですか? 妙子を囲んでいるのは寂しい漢口《ハンカオ》の風景ですよ。あの唐《とう》の崔※[#「景+頁」、第3水準1−94−5]《さいこう》の詩に「晴川歴歴《せいせんれきれき》漢陽樹《かんようじゅ》 芳草萋萋《ほうそうせいせい》鸚鵡洲《おうむしゅう》」と歌われたことのある風景ですよ。妙子はとうとうもう一度、――一年ばかりたった後《のち》ですが、――達雄へ手紙をやるのです。「わたしはあなたを愛していた。今でもあなたを愛している。どうか自《みずか》ら欺《あざむ》いていたわたしを可哀《かわい》そうに思って下さい。」――そう云う意味の手紙をやるのです。その手紙を受けとった達雄は……
主筆 早速《さっそく》支那へ出かけるのでしょう。
保吉 とうていそんなことは出来ません。何しろ達雄は飯を食うために、浅草《あさくさ》のある活動写真館のピアノを弾《ひ》いているのですから。
主筆 それは少し殺風景ですね。
保吉 殺風景でも
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