喜三郎の顔を見ると、必ず求馬のけなげさを語って、この主《しゅう》思いの若党の眼に涙を催させるのが常であった。しかし彼等は二人とも、病さえ静に養うに堪えない求馬の寂しさには気がつかなかった。
やがて寛文十年の春が来た。求馬はその頃から人知れず、吉原の廓《くるわ》に通い出した。相方《あいかた》は和泉屋《いずみや》の楓《かえで》と云う、所謂《いわゆる》散茶女郎《さんちゃじょろう》の一人であった。が、彼女は勤めを離れて、心から求馬のために尽した。彼も楓のもとへ通っている内だけ、わずかに落莫とした心もちから、自由になる事が出来たのであった。
渋谷《しぶや》の金王桜《こんおうざくら》の評判が、洗湯《せんとう》の二階に賑わう頃、彼は楓の真心に感じて、とうとう敵打《かたきうち》の大事を打ち明けた。すると思いがけなく彼女の口から、兵衛らしい侍が松江《まつえ》藩の侍たちと一しょに、一月《ひとつき》ばかり以前和泉屋へ遊びに来たと云う事がわかった。幸《さいわい》、その侍の相方《あいかた》の籤《くじ》を引いた楓は、面体《めんてい》から持ち物まで、かなりはっきりした記憶を持っていた。のみならず彼が二三日|中《うち》に、江戸を立って雲州《うんしゅう》松江《まつえ》へ赴《おもむ》こうとしている事なぞも、ちらりと小耳《こみみ》に挟んでいた。求馬は勿論喜んだ。が、再び敵打の旅に上るために、楓と当分――あるいは永久に別れなければならない事を思うと、自然求馬の心は勇まなかった。彼はその日彼女を相手に、いつもに似合わず爛酔《らんすい》した。そうして宿へ帰って来ると、すぐに夥《おびただ》しく血を吐いた。
求馬は翌日から枕についた。が、何故《なぜ》か敵《かたき》の行方《ゆくえ》が略《ほぼ》わかった事は、一言《ひとこと》も甚太夫には話さなかった。甚太夫は袖乞《そでご》いに出る合い間を見ては、求馬の看病にも心を尽した。ところがある日|葺屋町《ふきやちょう》の芝居小屋などを徘徊《はいかい》して、暮方宿へ帰って見ると、求馬は遺書を啣《くわ》えたまま、もう火のはいった行燈《あんどう》の前に、刀を腹へ突き立てて、無残な最後を遂げていた。甚太夫はさすがに仰天《ぎょうてん》しながら、ともかくもその遺書を開いて見た。遺書には敵の消息と自刃《じじん》の仔細《しさい》とが認《したた》めてあった。「私儀《わたくしぎ》柔弱《にゅうじゃく》多病につき、敵打の本懐も遂げ難きやに存ぜられ候間《そうろうあいだ》……」――これがその仔細の全部であった。しかし血に染んだ遺書の中には、もう一通の書面が巻きこんであった。甚太夫はこの書面へ眼を通すと、おもむろに行燈をひき寄せて、燈心《とうしん》の火をそれへ移した。火はめらめらと紙を焼いて、甚太夫の苦《にが》い顔を照らした。
書面は求馬が今年《ことし》の春、楓《かえで》と二世《にせ》の約束をした起請文《きしょうもん》の一枚であった。
三
寛文《かんぶん》十年の夏、甚太夫《じんだゆう》は喜三郎《きさぶろう》と共に、雲州松江の城下へはいった。始めて大橋《おおはし》の上に立って、宍道湖《しんじこ》の天に群《むらが》っている雲の峰を眺めた時、二人の心には云い合せたように、悲壮な感激が催された。考えて見れば一行は、故郷の熊本を後にしてから、ちょうどこれで旅の空に四度目の夏を迎えるのであった。
彼等はまず京橋《きょうばし》界隈《かいわい》の旅籠《はたご》に宿を定めると、翌日からすぐに例のごとく、敵の所在を窺い始めた。するとそろそろ秋が立つ頃になって、やはり松平家《まつだいらけ》の侍に不伝流《ふでんりゅう》の指南をしている、恩地小左衛門《おんちこざえもん》と云う侍の屋敷に、兵衛《ひょうえ》らしい侍のかくまわれている事が明かになった。二人は今度こそ本望が達せられると思った。いや、達せずには置かないと思った。殊に甚太夫はそれがわかった日から、時々心頭に抑え難い怒と喜を感ぜずにはいられなかった。兵衛はすでに平太郎《へいたろう》一人の敵《かたき》ではなく、左近《さこん》の敵でもあれば、求馬《もとめ》の敵でもあった。が、それよりも先にこの三年間、彼に幾多の艱難を嘗《な》めさせた彼自身の怨敵《おんてき》であった。――甚太夫はそう思うと、日頃沈着な彼にも似合わず、すぐさま恩地の屋敷へ踏みこんで、勝負を決したいような心もちさえした。
しかし恩地小左衛門は、山陰《さんいん》に名だたる剣客であった。それだけにまた彼の手足《しゅそく》となる門弟の数も多かった。甚太夫はそこで惴《はや》りながらも、兵衛が一人外出する機会を待たなければならなかった。
機会は容易に来なかった。兵衛はほとんど昼夜とも、屋敷にとじこもっているらしかった。その内に彼等の旅籠《はたご》の庭には、もう百日紅《ひゃくじつこう》の花が散って、踏石《ふみいし》に落ちる日の光も次第に弱くなり始めた。二人は苦しい焦燥の中に、三年以前返り打に遇った左近の祥月命日《しょうつきめいにち》を迎えた。喜三郎はその夜《よ》、近くにある祥光院《しょうこういん》の門を敲《たた》いて和尚《おしょう》に仏事を修して貰った。が、万一を慮《おもんぱか》って、左近の俗名《ぞくみょう》は洩《も》らさずにいた。すると寺の本堂に、意外にも左近と平太郎との俗名を記した位牌《いはい》があった。喜三郎は仏事が終ってから、何気《なにげ》ない風を装《よそお》って、所化《しょけ》にその位牌の由縁《ゆかり》を尋ねた。ところがさらに意外な事には、祥光院の檀家たる恩地小左衛門のかかり人《びと》が、月に二度の命日には必ず回向《えこう》に来ると云う答があった。「今日も早くに見えました。」――所化は何も気がつかないように、こんな事までもつけ加えた。喜三郎は寺の門を出ながら、加納《かのう》親子や左近の霊が彼等に冥助《みょうじょ》を与えているような、気強さを感ぜずにはいられなかった。
甚太夫は喜三郎の話を聞きながら、天運の到来を祝すと共に、今まで兵衛の寺詣《てらもう》でに気づかなかった事を口惜《くちお》しく思った。「もう八日《ようか》経てば、大檀那様《おおだんなさま》の御命日でございます。御命日に敵が打てますのも、何かの因縁でございましょう。」――喜三郎はこう云って、この喜ばしい話を終った。そんな心もちは甚太夫にもあった。二人はそれから行燈《あんどう》を囲んで、夜もすがら左近や加納親子の追憶をさまざま語り合った。が、彼等の菩提《ぼだい》を弔《とむら》っている兵衛の心を酌《く》む事なぞは、二人とも全然忘却していた。
平太郎の命日は、一日毎に近づいて来た。二人は妬刃《ねたば》を合せながら、心|静《しずか》にその日を待った。今はもう敵打《かたきうち》は、成否の問題ではなくなっていた。すべての懸案はただその日、ただその時刻だけであった。甚太夫は本望《ほんもう》を遂《と》げた後《のち》の、逃《の》き口《くち》まで思い定めていた。
ついにその日の朝が来た。二人はまだ天が明けない内に、行燈《あんどう》の光で身仕度をした。甚太夫は菖蒲革《しょうぶがわ》の裁付《たっつけ》に黒紬《くろつむぎ》の袷《あわせ》を重ねて、同じ紬の紋付の羽織の下に細い革の襷《たすき》をかけた。差料《さしりょう》は長谷部則長《はせべのりなが》の刀に来国俊《らいくにとし》の脇差《わきざ》しであった。喜三郎も羽織は着なかったが、肌《はだ》には着込みを纏《まと》っていた。二人は冷酒《ひやざけ》の盃を換《か》わしてから、今日までの勘定をすませた後、勢いよく旅籠《はたご》の門《かど》を出た。
外はまだ人通りがなかった。二人はそれでも編笠に顔を包んで、兼ねて敵打の場所と定めた祥光院《しょうこういん》の門前へ向った。ところが宿を離れて一二町行くと、甚太夫は急に足を止めて、「待てよ。今朝《けさ》の勘定は四文《しもん》釣銭が足らなかった。おれはこれから引き返して、釣銭の残りを取って来るわ。」と云った。喜三郎はもどかしそうに、「高《たか》が四文のはした銭《ぜに》ではございませんか。御戻りになるがものはございますまい。」と云って、一刻も早く鼻の先の祥光院まで行っていようとした。しかし甚太夫は聞かなかった。「鳥目《ちょうもく》は元より惜しくはない。だが甚太夫ほどの侍も、敵打の前にはうろたえて、旅籠の勘定を誤ったとあっては、末代《まつだい》までの恥辱になるわ。その方は一足先へ参れ。身どもは宿まで取って返そう。」――彼はこう云い放って、一人旅籠へ引き返した。喜三郎は甚太夫の覚悟に感服しながら、云われた通り自分だけ敵打の場所へ急いだ。
が、ほどなく甚太夫も、祥光院の門前に待っていた喜三郎と一しょになった。その日は薄雲が空に迷って、朧《おぼろ》げな日ざしはありながら、時々雨の降る天気であった。二人は両方に立ち別れて、棗《なつめ》の葉が黄ばんでいる寺の塀外《へいそと》を徘徊《はいかい》しながら、勇んで兵衛の参詣を待った。
しかしかれこれ午《ひる》近くなっても、未《いまだ》に兵衛は見えなかった。喜三郎はいら立って、さりげなく彼の参詣の有無を寺の門番に尋ねて見た。が、門番の答にも、やはり今日はどうしたのだか、まだ参られぬと云う事であった。
二人は惴《はや》る心を静めて、じっと寺の外に立っていた。その間に時は用捨なく移って、やがて夕暮の色と共に、棗の実を食《は》み落す鴉《からす》の声が、寂しく空に響くようになった。喜三郎は気を揉《も》んで、甚太夫の側へ寄ると、「一そ恩地の屋敷の外へ参って居りましょうか。」と囁いた。が、甚太夫は頭《かしら》を振って、許す気色《けしき》も見せなかった。
やがて寺の門の空には、這《は》い塞《ふさが》った雲の間に、疎《まばら》な星影がちらつき出した。けれども甚太夫は塀に身を寄せて、執念《しゅうね》く兵衛を待ち続けた。実際敵を持つ兵衛の身としては、夜更《よふ》けに人知れず仏参をすます事がないとも限らなかった。
とうとう初夜《しょや》の鐘が鳴った。それから二更《にこう》の鐘が鳴った。二人は露に濡れながら、まだ寺のほとりを去らずにいた。
が、兵衛はいつまで経っても、ついに姿を現さなかった。
大団円
甚太夫《じんだゆう》主従は宿を変えて、さらに兵衛《ひょうえ》をつけ狙った。が、その後《ご》四五日すると、甚太夫は突然真夜中から、烈しい吐瀉《としゃ》を催し出した。喜三郎《きさぶろう》は心配の余り、すぐにも医者を迎えたかったが、病人は大事の洩れるのを惧《おそ》れて、どうしてもそれを許さなかった。
甚太夫は枕に沈んだまま、買い薬を命に日を送った。しかし吐瀉は止まなかった。喜三郎はとうとう堪え兼ねて、一応医者の診脈《しんみゃく》を請うべく、ようやく病人を納得させた。そこで取りあえず旅籠《はたご》の主人に、かかりつけの医者を迎えて貰った。主人はすぐに人を走らせて、近くに技《ぎ》を売っている、松木蘭袋《まつきらんたい》と云う医者を呼びにやった。
蘭袋は向井霊蘭《むかいれいらん》の門に学んだ、神方《しんぽう》の名の高い人物であった。が、一方また豪傑肌《ごうけつはだ》の所もあって、日夜|杯《さかずき》に親みながらさらに黄白《こうはく》を意としなかった。「天雲《あまぐも》の上をかけるも谷水をわたるも鶴《つる》のつとめなりけり」――こう自《みずか》ら歌ったほど、彼の薬を請うものは、上《かみ》は一藩の老職から、下《しも》は露命も繋《つな》ぎ難い乞食《こじき》非人《ひにん》にまで及んでいた。
蘭袋は甚太夫の脈をとって見るまでもなく、痢病《りびょう》と云う見立てを下《くだ》した。しかしこの名医の薬を飲むようになってもやはり甚太夫の病は癒《なお》らなかった。喜三郎は看病の傍《かたわら》、ひたすら諸々《もろもろ》の仏神に甚太夫の快方を祈願した。病人も夜長の枕元に薬を煮《に》る煙を嗅《か》ぎながら、多年の本望を遂げるまでは、どうかして生きていたいと念じていた。
秋は益《ますます》深くなった。喜三郎は蘭袋の家
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